今会いに来ました。 カフェラテプリン道中記
4.
資格試験当日、実は大変でした。 虫垂炎をやってたんですね。
意味不明な腹痛に苦しみながら答案用紙に向かったものです。 でもさっさと書き上げて教室を出ました。
あの当時、試験問題は1科目に3問。 それが按摩 鍼 灸と別々に出されるんですよ。
だからね午前9時から午後5時まで昼食を除いて試験会場に缶詰めになるんですよ。 それでも大変だったなあ。
目の前には医務課から出向した試験官が居るわけですからね。
あの当時、試験は二日間。 二日目は実技試験でした。
それが終わるとぼくは家に帰ったんですけど、他の人たちは大分県へ滑り止めの試験を受けに行きました。
でもね、聞こえてきた話に愕然としましたよ。 「あっちに行ったら飲み会しようぜ。」
旅行気分で試験を受けに行ったわけ。 (こんな連中と3年も一緒に居たのか。) 情けなかった。
その後、ぼくは大阪へ出て行きました。
音楽の勉強をしたくて大阪府盲の音楽課を受験したんです。
試験の成績はさんざんだった。 3年間、国語も数学もやってなかったんだから。
でもね、ここでも助けられたんです。 課長が名倉先生の後輩だった。
それに「せっかく勉強したいって言ってるんだから入れてやれや。」って言ってくれた先生も居たんですよ。 有り難かったね。
それで4月からは大阪人になったわけ。 寄宿舎に入らせてもらいました。
回りは方言が飛び交う異様な世界。 大丈夫かって本気で心配した。
音楽課は7人の小さな課で存在感はまるで無し。
ピアノ調律コースと演奏コースが有りました。 過去形です。
ぼくは演奏コースでした。 同級はピアノ調律コースの二人。
大阪生まれ一人、富山出身一人、岩手 栃木 愛知出身が一人ずつ。
そして福岡から二人も来てたんですね。 いやいや、、、。
7人がそれぞれの方言が喋り捲るわけです。 方言グランプリみたいだった。
授業はというと、ピアノ チェロ エレクトーン ソルフェージュ 音楽史 音楽理論 声楽 合唱 合奏 体育 国語とこれだけ有ります。
それに追加して自習時間が組まれています。 楽譜を読んだりピアノを弾いたりするわけです。
ピアノなんて初めてでしたね。 オルガンには触ってたんですけど。
それにチェロなんて触れるとも思ってなかった。 意外だった。
しかしまあ、それにしても初心者だったんですよ。 馴染むのに大変だった。
絶対音感なんて物は持ってなかったからソルフェージュはいつも赤点。
エレクトーンも初球から初めて慣れてきたところで卒業になっちゃった。
ピアノなんてバイエルの80番くらいで卒業したんですよ。 笑えないわ。
張り切ったのは合奏だったなあ。 2年間、ぼくはベースを弾きまくりました。
高校生の頃からギターを弾いてたのでね。
富山から来ていた広田さんに言われました。 「やれる楽器は無いって言ってた兄ちゃんがベースを選んだのには驚いた。」って。
そう、あの当時に組んでいた合奏用のバンドはドラムス ベース シンセサイザー二人 それにピアノとフルートでした。
一人足りませんねえ。 そう、一人は高校生だったので合奏には参加してなかったんです。
それでいろんな楽曲をやりました。
ジャズ ロックからポップスまで。
ジョージシアリングの{優しく歌って}もやりましたよ。 ノンドラムバージョンでね。
カーペンターズもビートルズもやりましたねえ。 ショパンの現代版アレンジもやりました。
合奏は土曜日の3時間目と4時間目。 週の一番最後だったわけです。
あの当時は土曜日までやってましたからねえ。 それで何の文句も無かった。
会社だってそうでした。 だから土曜日はみんな元気だった。
週休二日が定着したのはいつだったかな? 別にそうする必要は無いと思う。
現にマッサージ師 鍼灸師は土曜日もフル回転で動いてます。
むしろ土日は稼ぎ時で休む人が居なかった。 金曜日をみんな休みにしてた。
今でもそうしている人はたくさん居ます。 だからね、なんかおかしいんですよ。
西欧がこうだから日本もこうしなきゃっていうのは。 あちらはあちら、こちらはこちらなんだから。
それでね、大阪での生活も順調?に進んでいるわけです。 そんな時、、、。
寄宿舎の居室に帰ってきた時、ぼくは何か妙な空気を感じました。
部屋の何処かから暖かい空気が流れてくるんです。 (これは何だろう?)
まだまだ創価学会を知らない頃のこと。 ぼくにはその謎が解けなかった。
謎が解けたのは10月のことなんですよ。 実は同室に横沢という岩手生まれの人が居まして、、、。
この人は実は学会員だった。 実際に折伏されるまでぼくは知らなかったんだ。
でもね、彼に会った瞬間に直感した。 (こいつ何か宗教をやってるぞ。」)ってね。
だから近付かないようにしたはずなのにいつの間にか金魚になってました。
その1年前、大分県で日蓮正宗の坊様が誘拐される事件が起きました。
この時、犯人が学会本部に要求した身代金が6億円。 至急で用意して会長が現地へ飛んだんですよね。
このニュースに驚いた人はたくさん居たと思う。 身代金6億円を躊躇せずに用意したのだから。
「池田さんって金持ちなんだなあ。」ってみんなで言い合ったもんです。
それなもんだから(学会には一生入らないぞ。 騙されるもんか。)って固く決意したもんでした。 その1年後に入信するんですけどね。
実はその頃、キリスト教に変に憧れてました。 洗礼っていうのがかっこ良く見えてたんですよ。
牧師さんとの交流も有りました。 ついでにywcaとの交流もね。
本当にあの頃は思想的に揺れ動いた時期だったんですねえ。
ywcaと何で知り合ったのか、、、? それは図書室職員にキャンプに誘われたことがきっかけでした。
でもね、ywcaって〈ヤングウーマンクリスチャンズアソシエーション〉だから基本は女の子の集まりです。
そこに男が参加することになったから現場は大騒ぎ。 飛び入りで男の子が参加してくれたから助かったけれど、、、。
その場で初めて牧師さんとも会いました。 衝撃でしたね。
それから揺れ動きに揺れ動いて創価学会に飛び込んだわけ。 何でそうなったのかなあ?
実はその頃、とんでもなく大変な爆弾を左足に抱えていました。
3年くらい苦しみ続けてたんですよ。 整形を何か所受診しても治らない。
腰痛だとか坐骨神経痛とか言われて鎮痛剤やシップも貰ったんですけど、どれもこれも効果が無い。
左足は倍と言っていいくらいに腫れ上がり、熱まで持ってきて夜もまともに寝れない感じ。
その状態で大阪に行ったんです。 無茶をしました。
そして5軒6軒と整形を回ってきました。 それが、、、。
7軒目だったかな、の整形外科に受診した時に先生に言われました。
「本当に痛いのか? レントゲンには何も映らないんだよ。 不思議だから血液検査をするね。」
それでやっと悪性筋炎だったことが判明したんです。 切断ギリギリの状態でした。
「1週間発見が遅れたら切断してたよ。」 先生も冷や汗だったでしょう。
それは9月のことでした。
意味不明な腹痛に苦しみながら答案用紙に向かったものです。 でもさっさと書き上げて教室を出ました。
あの当時、試験問題は1科目に3問。 それが按摩 鍼 灸と別々に出されるんですよ。
だからね午前9時から午後5時まで昼食を除いて試験会場に缶詰めになるんですよ。 それでも大変だったなあ。
目の前には医務課から出向した試験官が居るわけですからね。
あの当時、試験は二日間。 二日目は実技試験でした。
それが終わるとぼくは家に帰ったんですけど、他の人たちは大分県へ滑り止めの試験を受けに行きました。
でもね、聞こえてきた話に愕然としましたよ。 「あっちに行ったら飲み会しようぜ。」
旅行気分で試験を受けに行ったわけ。 (こんな連中と3年も一緒に居たのか。) 情けなかった。
その後、ぼくは大阪へ出て行きました。
音楽の勉強をしたくて大阪府盲の音楽課を受験したんです。
試験の成績はさんざんだった。 3年間、国語も数学もやってなかったんだから。
でもね、ここでも助けられたんです。 課長が名倉先生の後輩だった。
それに「せっかく勉強したいって言ってるんだから入れてやれや。」って言ってくれた先生も居たんですよ。 有り難かったね。
それで4月からは大阪人になったわけ。 寄宿舎に入らせてもらいました。
回りは方言が飛び交う異様な世界。 大丈夫かって本気で心配した。
音楽課は7人の小さな課で存在感はまるで無し。
ピアノ調律コースと演奏コースが有りました。 過去形です。
ぼくは演奏コースでした。 同級はピアノ調律コースの二人。
大阪生まれ一人、富山出身一人、岩手 栃木 愛知出身が一人ずつ。
そして福岡から二人も来てたんですね。 いやいや、、、。
7人がそれぞれの方言が喋り捲るわけです。 方言グランプリみたいだった。
授業はというと、ピアノ チェロ エレクトーン ソルフェージュ 音楽史 音楽理論 声楽 合唱 合奏 体育 国語とこれだけ有ります。
それに追加して自習時間が組まれています。 楽譜を読んだりピアノを弾いたりするわけです。
ピアノなんて初めてでしたね。 オルガンには触ってたんですけど。
それにチェロなんて触れるとも思ってなかった。 意外だった。
しかしまあ、それにしても初心者だったんですよ。 馴染むのに大変だった。
絶対音感なんて物は持ってなかったからソルフェージュはいつも赤点。
エレクトーンも初球から初めて慣れてきたところで卒業になっちゃった。
ピアノなんてバイエルの80番くらいで卒業したんですよ。 笑えないわ。
張り切ったのは合奏だったなあ。 2年間、ぼくはベースを弾きまくりました。
高校生の頃からギターを弾いてたのでね。
富山から来ていた広田さんに言われました。 「やれる楽器は無いって言ってた兄ちゃんがベースを選んだのには驚いた。」って。
そう、あの当時に組んでいた合奏用のバンドはドラムス ベース シンセサイザー二人 それにピアノとフルートでした。
一人足りませんねえ。 そう、一人は高校生だったので合奏には参加してなかったんです。
それでいろんな楽曲をやりました。
ジャズ ロックからポップスまで。
ジョージシアリングの{優しく歌って}もやりましたよ。 ノンドラムバージョンでね。
カーペンターズもビートルズもやりましたねえ。 ショパンの現代版アレンジもやりました。
合奏は土曜日の3時間目と4時間目。 週の一番最後だったわけです。
あの当時は土曜日までやってましたからねえ。 それで何の文句も無かった。
会社だってそうでした。 だから土曜日はみんな元気だった。
週休二日が定着したのはいつだったかな? 別にそうする必要は無いと思う。
現にマッサージ師 鍼灸師は土曜日もフル回転で動いてます。
むしろ土日は稼ぎ時で休む人が居なかった。 金曜日をみんな休みにしてた。
今でもそうしている人はたくさん居ます。 だからね、なんかおかしいんですよ。
西欧がこうだから日本もこうしなきゃっていうのは。 あちらはあちら、こちらはこちらなんだから。
それでね、大阪での生活も順調?に進んでいるわけです。 そんな時、、、。
寄宿舎の居室に帰ってきた時、ぼくは何か妙な空気を感じました。
部屋の何処かから暖かい空気が流れてくるんです。 (これは何だろう?)
まだまだ創価学会を知らない頃のこと。 ぼくにはその謎が解けなかった。
謎が解けたのは10月のことなんですよ。 実は同室に横沢という岩手生まれの人が居まして、、、。
この人は実は学会員だった。 実際に折伏されるまでぼくは知らなかったんだ。
でもね、彼に会った瞬間に直感した。 (こいつ何か宗教をやってるぞ。」)ってね。
だから近付かないようにしたはずなのにいつの間にか金魚になってました。
その1年前、大分県で日蓮正宗の坊様が誘拐される事件が起きました。
この時、犯人が学会本部に要求した身代金が6億円。 至急で用意して会長が現地へ飛んだんですよね。
このニュースに驚いた人はたくさん居たと思う。 身代金6億円を躊躇せずに用意したのだから。
「池田さんって金持ちなんだなあ。」ってみんなで言い合ったもんです。
それなもんだから(学会には一生入らないぞ。 騙されるもんか。)って固く決意したもんでした。 その1年後に入信するんですけどね。
実はその頃、キリスト教に変に憧れてました。 洗礼っていうのがかっこ良く見えてたんですよ。
牧師さんとの交流も有りました。 ついでにywcaとの交流もね。
本当にあの頃は思想的に揺れ動いた時期だったんですねえ。
ywcaと何で知り合ったのか、、、? それは図書室職員にキャンプに誘われたことがきっかけでした。
でもね、ywcaって〈ヤングウーマンクリスチャンズアソシエーション〉だから基本は女の子の集まりです。
そこに男が参加することになったから現場は大騒ぎ。 飛び入りで男の子が参加してくれたから助かったけれど、、、。
その場で初めて牧師さんとも会いました。 衝撃でしたね。
それから揺れ動きに揺れ動いて創価学会に飛び込んだわけ。 何でそうなったのかなあ?
実はその頃、とんでもなく大変な爆弾を左足に抱えていました。
3年くらい苦しみ続けてたんですよ。 整形を何か所受診しても治らない。
腰痛だとか坐骨神経痛とか言われて鎮痛剤やシップも貰ったんですけど、どれもこれも効果が無い。
左足は倍と言っていいくらいに腫れ上がり、熱まで持ってきて夜もまともに寝れない感じ。
その状態で大阪に行ったんです。 無茶をしました。
そして5軒6軒と整形を回ってきました。 それが、、、。
7軒目だったかな、の整形外科に受診した時に先生に言われました。
「本当に痛いのか? レントゲンには何も映らないんだよ。 不思議だから血液検査をするね。」
それでやっと悪性筋炎だったことが判明したんです。 切断ギリギリの状態でした。
「1週間発見が遅れたら切断してたよ。」 先生も冷や汗だったでしょう。
それは9月のことでした。