桜ふたたび 前編

3、繊月

街路樹の葉が錆びた色を深め、冬の気配が足音を忍ばせていた。
ふと見上げると、猫の目のような繊月が、夜空の一角をひっそりと削っている。

──ドイツはもっと寒いだろうな……。

澪は遠く離れた空の下、ジェイのことを思った。
そろそろコートが必要なように、澪の心にも寂しさという木枯らしが吹きはじめている。

──今、なにをしているのかな……?

仕事に決まっているかと、澪は寂しく笑った。
目が覚めてから眠るまで、仕事に明け暮れて、きっと澪のことなど思い出す暇もないのだろう。
もうひと月近くメールも途絶えていた。

せめて声だけでも訊きたい。
それも叶わぬ今、イタリア行きのチケットだけが、心の支えだった。

──早く逢いたい。

あたたかな胸が恋しかった。
彼だけが、この心の寒さをやわらげてくれる。

──ジェイ……。

逢いたくて、逢いたくて、逢いたくて──。
彼の名を想うだけで、涙が零れそうになる。
これが〈愛する〉ということなのかと、澪は思った。

──愛?

澪は弱々しく首を振った。
人はよく簡単に〝愛〞を口にするけれど、澪にその本質を教えてくれる者はいなかった。

五年前のあのときも、〝愛〞という言葉の前で、澪は行き暮れてしまったのだ。

今も、答えを探している……。
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