桜ふたたび 前編

3、カトレアの女

聖堂に、クリスマスの祈りが厳かに流れていた。
ベンチに並ぶ参列者たちは神妙に首を垂れ、司祭の言葉に応じて胸の前で十字を切り、「アーメン」と静かに合掌する。

白と黒の縞模様のファサードを持つこの教会は、外見は質素だけど、内部には高雅なルネサンス様式の空間が広がっている。
ドームには旧約聖書の場面が描かれ、ステンドグラスにはキリストの生誕から復活までが鮮やかに映し出されていた。
薔薇窓から差し込むわずかな光に、十字架のイエスが浮かび上がり、祭壇の脇では幼子を抱いた聖母マリア像が、静かに佇んでいた。

ここは、ジェイが洗礼を受けた教会。

今朝、ジェイから「ミサへ行く」と聞かされたとき、澪にはとても意外だった。
普段の彼からは、信仰心などまったく想像できなかったから。

でも、そう、彼は〝カソリック〞なのだ。
宗教心が希薄と言われる日本人にも、八百万の神や祖先を敬う心が自然と根づいているように、彼のベースには、カトリックの教えが深く息づいている。

そして、ルナも──。

澪はそっと、隣で両手を組むルナへ目を向けた。
その左手薬指に、小さな一粒ダイヤの指輪を見つけて、澪はたまらず目を瞑った。



朝食後、ルナから依頼されたのは、日本語で書かれた手紙の代読だった。
そこには、差出人の息子が安否不明になっていることがしたためられていた。

MSF(国境なき医師団)の邦人医師が、スーダンで消息を絶ったというニュースは、数日前、日本でも報じられていた。拉致や誘拐の犯行声明も聞かれず、忽然と姿を消したのだと言う。
ずいぶん危険な地域に赴任していたらしく、国際援助のあり方やMSFの危機管理体制、さらには〈自己責任〉を口にするコメンテーターもいた。

事件からすでに一週間以上。
ジェノサイドが続く紛争地帯で、自らの意思で失踪したのでないのなら、生存の望みは限りなく薄い。

何も言えなかった。
澪は手紙をそっとたたみ、黙って部屋を出た。
ドアの向こうから聞こえた慟哭が、今も耳に残っている。



なぜ神は、人々の救済に尽力する者に試練を与えるのか──。
澪には理会できない。
世界中が祝福に包まれるクリスマスの日に、あまりに理不尽だ。

それでも、神に祈らずにいられない──人間とは、なんと弱い存在なのだろう。

〈主よあわれみたまえ〉
聖堂に、グレゴリオ聖歌が響く。

澪は十字架を見上げ、強く祈った。
神の慈恵で心が癒えるのなら、今、震えている彼女を、どうか救ってください──と。
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