桜ふたたび 前編
Ⅹ カポダンノ

1、永遠の都

スペイン階段の上に建つクラシックホテルのルーフレストランから、青空の下に広がる美しい町並みが一望できる。

ローマは町全体が世界的遺産。見るものすべてが壮大で、まるでスペクタクルな舞台セットのよう。目に飛び込んでくる風景がどれも現実とは思えず、澪の脳は処理が追いつかない。感動の波が押し寄せて、息を呑む瞬間の連続。
夢見心地のまま、澪はテーブルの上の水差しに手を伸ばした。

なにしろ、ジェノヴァからの移動がビジネスジェットだった時点で、もう目を回していたのだから。

「ランチの後にBasilica di San Pietro(サン・ピエトロ大聖堂)へ行こう。時間がないからMusei Vaticania(ヴァチカン美術館)はまた次の機会に」

ピクニックの計画でも練るような軽やかな声と表情に、澪もつられて頬を緩めた。

甘い。毎日が蕩けそうに甘い。
こんなにもふたりの時間に慣れてしまって、あと数日で帰国だというのに、元の生活にきちんと戻れるのだろうか。──などという杞憂すら横に置いといてしまえるくらい、頭も心も体もとろとろに甘やかされてた。

《Buongiorno.signor Arflex.》

ひときわ大きく通る声に、澪は目を丸くした。まわりの客も一斉に声の方へと振り向く。

声の主は、立派な眉とダックテールの髭の老紳士だった。
頭頂部まで後退した髪、太い首が恰幅のいい体にめり込み、蝶ネクタイでもつければオペラ歌手と見紛いそうだ。

ジェイは、男が差し出した握手に応じないどころか、視線も動かさない。

男はムッとした色をすぐに引っ込めて澪に顔を向けると、大げさなジェスチャーと感嘆符のついた台詞を吐いた。
たぶん心にもないお世辞を並べていたのだと思う。

《あなたのお顔を拝見すると、今年も無事一年が終わることを実感しますよ》

男の顔に貼り付いた笑顔は、ひどく卑屈に見えた。

《ホテルの名称が変わっても、来年もここで食事をするつもりだ》

ジェイの声は寒々としている。

男の表情が、一瞬憎々しげに歪む。すぐに乾いた大声でハッハッハッと笑い出した。
発声練習のような不自然さに、他の客が驚いて、いっとき、高級レストランの空気が白けた。

《それはそれは、さぞシェフも歓ぶでしょう。ご挨拶はこれくらいにして、お楽しみのところをおじゃまいたしました。どうぞごゆっくり》

男は慇懃に一礼して、背を向ける。

ジェイはまるで通りすがりの他人であるかのように、彼を見やることもせず、トリニタ・ディ・モンティ教会のオベリスクへ顔を向けた。

「お知り合いですか?」──と、訊ねられる雰囲気ではとてもない。
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