桜ふたたび 前編

4、花嵐

「おおきに。お気をつけてお帰りやす」

路地裏を出た澪は、ほおっと息を吐いた。小夜更けて花冷えしている。

見上げると、両側の建物が覆い被さって来るような狭い空間に、エナメル色の空がのぞき、遠く高く、真珠のような月が笑っていた。

「あれ?」

ほんのわずか目を離しただけなのに、人通りにもう千世の姿が消えていた。
一本道だから迷うことはないけれど、今の彼女には彼しか眼中にないらしい。

けれど、どんなに千世が熱を上げても、今回は無理だろう。
外見の美しさだけではなく、食事の仕方もスマートで、一つ一つの所作に育ちの良さがあらわれていた。
あまりにミスマッチな存在に、店を間違えたかと客が引き返しそうになったくらいだ。

たぶんとても遠いひと──。
住む世界も、考え方も、価値観も、澪たち一般人とは決して交わらない。

それに、あの瞳の奥の暗さは、きっと人を傷つける。
もし千世が彼とのっぴきならない関係になったら、彼の闇に天真爛漫な明るさが浸食されてしまいかねない。

──まだ、なにもはじまってないのに。

澪は石橋を叩いても渡らない心配性だと、千世は笑う。

〈渡る前からあーだらこーだら考えててもしゃーないやん。あんたが橋のたもとでぐずぐずするさかい、うちが渡らしたんのに、みぃんなうちを悪もんみたいに言うて、割に合わんわ〉

千世に悪意があるわけがないのに、ここでもいらぬ厄介をかけている。

人様に迷惑をかけない。決して前へ出ず、片隅でひっそりと口を閉じて笑みを浮かべていれば、誰を傷つけることも、疎まれることもない。

それなのに、なぜか望まない波紋が起こる。だからよけいに慎重になって、それがさらなる悪循環を生む。

〈あれは疫病神だ。あいつの存在がまわりを苦しめる〉

呪いの声から逃げるように歩きかけて、澪はつと足を止めた。

──このまま追いつかない方が、千世は歓ぶかもしれない。

次に行く店は決まっているし、彼を三条大橋まで道案内したら、彼女もすぐに向かうはずだ。
なにより、狭い道幅いっぱいに盛り上がりながら練り歩く観光客を、追い抜く勇気が澪にはない。
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