桜ふたたび 前編
Ⅺ すれ違うこころ

1、カプリの小鳥

夜明け前、澪を捜してクルーザーのデッキへ上がったジェイは、ブリッジにたたずむ彼女の姿を見つけて、思わず足を止めた。

どこか神秘的な海の薄明かりのなか、彼女の肩に宿る静けさが、なぜか声をかける気持ちをためらわせた。

昨夜、新年の祝賀ムードに浮かれたアレクが《vedi Napoli e poi mori.(ナポリを見て死ね)》と言い出したとき、ジェイは戯れ言と本気にはしていなかった。

イタリア南部の年越しは、銃撃戦のように爆竹を鳴らし、山火事のように発煙筒を焚き、小型爆弾のような花火をぶっ放し、人騒がせな乱痴気騒ぎが夜通し続く。
その有様はもはや陽気を通り越し、ロケット花火の乱射や、ビンの襲撃に、外国人には危険な状況があちこちで発生する。
さらに、新年とともに窓から不要物を投げ捨てるという奇習が残る町もあり、家具や電化製品の直撃を受けて、毎年少なからず負傷者が出る。

それを、人混みを嫌う澪が賛同したことが、ジェイには解せない。

案の定、澪は狂躁に震えあがり、結局、早々に町を脱出して、アレク所有のキャビンクルーザーで夜明けを待つこととなったのだ。

澪は、茫洋と明るむ水平線を見つめている。

暁の帯が空を瑠璃色に染めて、星が静かに消えてゆく。肌に感じる風はなく、船体は眠ったように静かだ。
まだ騒ぎ足りないのか、穏やかな波音に紛れて、港の方で乾いた爆音が響いていた。

声をかけると、澪はゆっくりと振り向き、花のつぼみが綻ぶような笑顔を見せた。

「寒いだろう?」

頬に落ちた髪が、夜の潮風に濡れている。ベッドも冷たいままだったから、一睡もしていないのかもしれない。

「眠れなかった? 船酔いしたかな?」

澪は微かに首を振った。
日本では、年越しは家族と静かに神を迎えるのだと言っていた。イタリアのお祭り騒ぎは刺激的すぎたのかもしれない。

コツ、コツ……とガラスを叩く音に振り返ると、キャビンの窓越しにアレクがいた。人差し指を上に立て、「出航するぞ」とサインを送っていた。
< 230 / 313 >

この作品をシェア

pagetop