桜ふたたび 前編

2、パンドラの箱

ニューヨークには冷たい雨が降り続いていた。

ホテルのロビーラウンジに戻ったリンは、窓際のテーブルに座るジェイの姿に、思わず足を止めた。

ジェイは、周囲の喧騒から切り離されたかのように、雨に揺れる青灰色の街並みを見つめている。
その瞳は虚で、まるでどこかに置き忘れた魂のかけらを探しているかのように、遠い。

帰国後のジェイは、以前にも増して仕事に没頭している。その一方で、今日のようにぼんやりと窓の外を眺める姿も増えた。
珍しく疲れているのだろうか、どことなく生気がない。

「あと五分だそうです」

そう告げても、ジェイは無表情のまま、微動だにしない。
約束の時間はすでに過ぎている。いつもの彼なら、とうに引き揚げていただろう。

ロビーは、ボールルームで開催されるニューヨーク復興チャリティーパーティーに集まったセレブたちで賑わっていた。
誰もが口々に、雪に変わらない雨に不満を漏らしている。

ざわめきの中、一人の影が群れを離れ、ラウンジの入口でスマホを耳に当てたリンとすれ違った。

洒落たネイビースーツの男は、テーブル脇で足を止め、硝子に映った顔に笑いかける。
無表情に振り仰いだジェイに、紺碧の瞳が笑った。

《人待ちか?》

《ああ》

予想外に無機質な声。
アレクは、ジェイの表情をうかがうように、対面の席に腰を下ろした。

《なんだ? ブルーバードとケンカでもしたか?》

《いや、逃げられた》

《逃げられたぁ?》

茶化すつもりが、驚きすぎて声が裏返った。

《鳥かごの扉を閉め忘れたか?》

《いや、鳥かごに入れる前に飛んでいった》

《どこへ?》

《さあ?》

《とにかく捕まえてこいよ》

無表情な横顔の向こうで、氷まじりの雨だれが、硝子に滲んだ直線を引いて滑り落ちていった。

《もう戻らない》

アレクは眉をひそめ、声をひそめた。
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