桜ふたたび 前編
Ⅱ YESかNOか

1、水に映る月

京は、艶やかな薄紅色から、瑞々しい青葉の季節へと移っていた。
寺社や民家の石塀には、可憐な躑躅があふれ咲き、庭の花水木が街に彩りを添えている。

季節が移ろおうとも、澪の一日は変わらない。何事もなかったかのように、日常が淡々と流れていく。

平穏──。それが澪にとっては、最良だった。

ときおり、このまま漫然と年を重ね、無為に死んでゆくことを考えると、虚しくはなる。

けれど、何かの才に恵まれているわけでもないし、社会に貢献できそうな信念もない。
母が言うとおり、〈自己主張も自尊心もなく、何の取り柄も持たない役立たず〉だ。
この先もおそらく〝おひとり様〞で生きてゆくのだろうから、カツカツの生活でも、健康で、定職があるだけでありがたいと思っている。

澪は、人との距離が近くなると不安になる。
どこまで踏み込んでいいのか、接し方の境界がわからないのだ。

自分の存在が目障りになっていないか。自分の言動が相手の気分を損ねていないか。──そんなことばかり気になって、結局いつも一歩も動けず、かえって相手を煩わせ苛立たせてしまう。

反省して、後悔して、自己嫌悪。
そんな自分がますます嫌になって、だからつい、人交わりを避けてしまう。

孤独を感じることもある。心細いこともある。
けれど、家族とさえ心を通わせられず、ただ〝居場所〞がほしくて自分を殺してきた過去を思えば、ひとりの方が、ずっと楽だ。

それでも、こんな澪にも友人がいる。

〝親友〞と呼ぶのはおこがましい。
とくに千世にとっては、数多いる友人の一人にすぎないだろう。

だけど、いちいち相手の言葉の裏の裏を考え悩む澪にとって、京都人には珍しく、思ったことは素直に口にして、表情は子どものように正直で、何事も己にポジティブに解釈できる彼女は、とても楽な存在なのだ。

そして、もうひとり──。
< 28 / 313 >

この作品をシェア

pagetop