桜ふたたび 前編
XIV Tears Drop

1、シープメドウ

春を迎えたマンハッタンは、ピンクや黄緑色のウサギや卵のイースターデコレーションで華やいでいる。
先日のセント・パトリック・パレードの名残で、アイリッシュカラーの飾り付けもそよそよと恵風に揺れ、せかせかしたニューヨーカーたちの足を少しだけ緩やかにしていた。

マンハッタンは、音の洪水だ。
イエローキャブの烈しいクラクション、走り回る緊急車のサイレン、街角に突如現れるストリートミュージシャンの調子っぱずれな歌声。
けたたましい笑い声、激しい怒声、悲痛な嘆き声、様々な祈りの声──。
ありとあらゆるものが混在し、飽和状態の巨大な街に、あふれんばかりの言語が飛び交っている。

アメリカンドリーム──希望と絶望、勝者と敗者の街。
成功を夢見る者たちが、エキサイティングな明日を求めて、マンハッタンというコスモポリタンを創造している。

ここが、ジェイの街なのだ。

澪は、眩暈がしそうな喧噪に佇み、整然と果てしなく続くアースカラーのビル群を見上げて、嘆息した。

──これから、どうしよう……。

後先考えずニューヨークまでやって来たけれど、チェルシーの病院で彼の退院を知らされて、向こう見ずな行動を後悔していた。

だいたい、自分から別れを告げておいて、今さらのこのこと押しかけて来るなんて、浅ましいにもほどがある。

プライドの高い人だから、自分から去った女のことなど、とっくに記憶の彼方に消し去っているかもしれない。
クリスか、誰か別の女性が、すでに彼の隣にいるかもしれないのに。

それに──会ったところで、何の力にもなれない。かえって迷惑かもしれない……。

今になって怖じ気立つくらいなら、日本を発つ前に、なぜもっと考えなかったのだろう。

──とにかく、退院できるほど元気になってよかった。

澪の手元にあるのは、復路のチケットとパスポート、それに現金が僅か300ドル。
空腹のせいか、心細さにじんわりと涙が浮かんできて、澪は己を鼓舞するように、大きく鼻から息を吸い込んだ。
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