桜ふたたび 前編

4、テムズ川

テムズ川畔の老舗ティーハウスの片隅で、ジェイは男を待っていた。

バロック音楽が流れるビクトリア王朝風の店内では、マダムや老夫婦たちが優雅なアフタヌーンティーを愉しんでいる。
スーツ姿の男が一人、ブラックコーヒーを飲んでいる姿は、周囲から完全に浮いていた。

ロンドンでもジェイのニューヨーク嗜好は変わらない。
明らかに趣味の異なる彼に、お堅い英国紳士のExecutive Vice Presidentは、その姿を垣間見ただけで、煙たげな表情を浮かべるのだった。

いや、それ以上に、突然降って湧いたように現れたグループ総帥次男の処遇に、誰もが困惑しているのだろう。

現在、ジェイに与えられたポジションは、AX Hotels International London. の Vice President 。
〝Ｍ＆Ａの魔術師〞と謳われるカリスマも、ホテル運営という舞台では、用無しのお飾りだ。

窓の外にはタワーブリッヂ。橋の上を赤いダブルデッカーが走り、その下を水上バスが行き交っている。対岸に血生臭い歴史を刻んだロンドン塔が、降り始めた霧雨のなかに、荘厳な佇まいを見せていた。

ジェイは視線を窓に投げたまま、浅く息を吐いた。
物憂げに雨宿りをしているように見えるが、その胸のうちには、青い蒼炎が熾っている。

年代物の柱時計が、低い鐘の音を四度響かせたとき、重厚なドアが静かに開いた。
雨の匂いとともに、一人の男が体を滑らすように入ってくる。

男は肩の滴を払いながら、青灰色の奥目を素早く動かし、店内を探った。
ジェイの顔を見つけると、たちまち痩けた頬を緩ませた。

レオナルド・デュガリー（レオ）。
十年前、フランス対外治安総局から引き抜いた元パリ調査室チーフ。
サンクチュアリの最古参にして最年長。ジェイの股肱の臣だ。

気配を消して自らをモブ化するという特技を活かし、潜入捜査や尾行など、足を使って生の情報を収集してくる。

シャタンの髪はかなり薄く、広くなった額を隠すように申し訳程度の前髪を垂らしている。その割に、体毛はツバメの巣のように多い。
特徴といえば先の尖った耳くらい。中肉中背の体にノーブランドのジャケットとポロシャツと、どこから見ても平凡な中年オフィスワーカーにしか見えない。

ただ一つ、足音も立てずにジェイの向かいに座る、猫科のような身のこなしを除けば。