桜ふたたび 前編

5、Tears Drop

「澪ちゃ〜ん! こっち!」

人波に呑み込まれ、はぐれかけた澪に向かって、悠斗となずなが爪先立って大きく両手を挙げた。

三人とも、サッカーイタリア代表のユニフォームを着込み、道中で怪しげな外国人に押し売りされた王冠型のフェルト帽をかぶっている。その上、頬には日の丸とトリコローレのペインティング。まるでハロウィーンの仮装のような出で立ちだ。

今夜のチャリティーゲームには、現役選手を含む世界各国のスーパースターが集結。一夜限りのドリームマッチに、サッカーフリークたちは狂喜乱舞した。ネットオークションではチケットが数十倍の値段で取引され、社会現象になったほどだ。

満員のスタジアムは、すでにカーニバルのような底抜け騒ぎ。昂奮のるつぼと化した観客席は、応援歌とブブゼラの音で隣の話し声さえまともに聞き取れない。

「あった! ここだ、ここ!」

なずなが額の汗を手の甲で拭いながら、右往左往する澪を手招きした。

「プレミアムシートなんて、よくとれたなぁ」

悠斗は、ただ純粋にサッカーが好きで、夢中でボールを追っていた少年時代に戻ったかのように、メインスタンドから見下ろす天然芝のピッチに瞳を輝かせている。
興奮しすぎて昨夜は眠れなかったらしく、新幹線で居眠りして乗り過ごし、待ち合わせに遅刻してきた。

ムッとする熱気に、座っていても汗が流れ落ちるのに、いくども起こるウエーブと歓声に、観客のボルテージはぐんぐんと上がってゆく。
再びウエーブが廻ってきた。
何度やってもワンテンポ遅れる澪に、悠斗となずなは呆れた笑いを向けている。

人酔いした澪は、美しい銀屋根を呆けたように見上げた。
強烈な照明塔の光に、屋根の間から覗く暮れ空も銀鼠色に明るんでいた。

セレモニー開始を告げるファンファーレが響いた。

一瞬、スタジアム全体が息を呑んだように静まり返り、そして次の瞬間には、コロセウムに入場するグラディエーターたちを迎えるが如く、地鳴りのような凄まじい大歓声が湧きあがった。スタンド中にフラッシュがスパークし、数え切れないビッグフラッグが大きく波打ち振られている。

試合開始のホイッスルから、観客たちの動きは忙しい。歓声を上げて立ち上がったかと思うと、ああ〜と溜め息とともに腰を降ろす。熱狂的な歌声、リズムにあわせ手を叩き、足を鳴らし、跳びはねる。

次第にトランス状態に陥る群衆に、澪が不気味さを感じ始めたそのとき──ふと、懐かしい香りがした。
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