桜ふたたび 前編

3、卯の花曇り

『Pass the dead line.（時間だ）』

大阪のビジネス街を見下ろす重厚な会議室。
太刀風のように席を立つ男に、あたふたと起立して一礼を送ったのは、プレーンノットのネクタイも初々しい青年。その隣の老将の風格をたたえる白髪まじりの男は、腕を組み、背もたれにもたれたまま、怒りに燃えた痩けた顔を頑なに横向けている。

「ハゲタカがぁ」

憎しみの捨て台詞にも、背を向けた男は眉ひとつ動かさない。
終決のドアの音に、後ろに続いた柏木崇史は、老人を哀れむように中礼した。

ハゲタカ──。

固陋な人間ほど、彼をそう謗る。
己が心身ともにいつまでも若いと信じて疑わず、今なお第一線に立っているつもりでいるが、弱った視力では時流の変化が視えず、衰えた聴覚では耳触りの良い甘言しか届かない。プライドと権力にしがみつく彼らは、すでに老害でしかない。

しかし、彼らの過去の功績に一分も斟酌しない彼は、非情、いや、無情か。
何度経験しても、後味のいいものではないなと、柏木は心の中でそっと首を振った。

彼は、徹底した営利主義者で、利益を生まないと判断すれば、いかなるものも即座に切り捨てる。
端麗な容姿からは想像もよらない冷酷な打算と合理で、その思考の根幹は占められている。

さらに彼は、感情を司るＡ10という神経が先天的に欠落していると虚聞されるほど、情動を表に出さない。
この数ヶ月、来日のたびにコーディネータ兼通訳として随行してきたが、もしもあの鉄仮面に笑いかけられでもしたら、何か禍が起こる前兆かと、不気味に思ってしまうだろう。

それにしても、タフだ。
怱忙な日程にもかかわらず、まるで半永久的に働き続ける高性能コンピュータのように、淡々とシビアにスケジュールをこなしてゆく。
Time is money──。京都では、相手が１分待たせただけで会食の席から消えてしまい、関係者たちを震撼させたこともあった。

そんな彼に随伴するこちらの方が、よほど心労で疲弊して見えているはずだ。

──それもあと一件だ。ようやく東京へ帰れる。今夜は妻と息子の待つ我が家でぐっすり眠れる。

柏木はスマホの待ち受けに目を落とし、家族の笑顔に頬を緩めた。
そのわずかな気の緩みが、自らを窮地に追いやるとは、知る由もなく。