桜ふたたび 前編

2、風鈴

後祭(あとまつり)が終わり、梅雨明けした京都は、地獄のような猛暑日と、寝苦しい熱帯夜が続いていた。

寝不足のせいか、銭湯で湯当たりしてしまった澪は、アパートの外階段でよろめいて、あわや手すりにしがみついた。

陽は落ちたのに、夏の空はまだ明るい。京の夕凪時の蒸し暑さは堪える。

どこかで赤ちゃんが泣いている。子どもたちの弾ける笑い声、犬の人恋しげな鳴き声、通り過ぎるバイクのエンジン音、夕飯の煮物の匂い──。
いつもの場景なのに、なぜこんなにも切ないのだろう。

靴音を立てぬよう階段を上りきり、額の汗をハンカチで抑えふと目を上げると、廊下の奥に人影があった。

こちらに気づき、おもむろに壁に凭れていた体を浮かす相手に、澪は小さく会釈をして、やにわに踵を返した。

「どこへ行くんだ!」

澪は、〝だるまさんがころんだ〞のようにピタリと静止した。

「な、なぜここに……?」

すくめた肩越しに、怯えた声が漏れる。
幽霊でも見たかと思った。アメリカにいるはずの〝セレブ男〞が、いきなり貧相なアパートの前に立っていて、面食らわない方がおかしい。

「なぜって……」

意外な質問だったのか、ジェイには珍しく言葉を詰まらせている。

「とにかく──、シャワーを使わせてくれないか?」
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