桜ふたたび 前編

4、七日目の蝉

「イチビッタラとは、どういう意味?」

微睡んでいた澪は、一瞬ロシア語かと思った。

二度三度目を瞬たせ、ゆるく息を吐く。
腕を支えに気疎い体をゆっくり起こと、視線の先で、ジェイはベッドを背もたれにノートパソコンを覗いていた。

深夜はとうに回っているはずなのに、いったいいつ眠るのだろう。
時間に関係なく電話がかかってくるし、早起きの澪より朝が早い。週末に会えることが多いけど、完全に休みという日はないみたい。

世界を股にかけて働いているというから、常にどこかの地域が活動中だと理解はできる。
それでも、時計とスマートフォンは体の一部。ずっと神経を張り詰めて、深く眠ることがないように見える。
いつか体を壊さないか、澪は心配だった。

今夜だって、澪になどかまけていないで少しでも休息を、と思っていたのに……。
そんなことが杞憂に思えるくらい、彼は、何と言うか──元気だ。
澪の体は悲鳴をあげているというのに。

あっ、と裸の胸に気づいて、澪は剥ぎ捨てられた服を探してこそこそと身につけながら、耳にした単語を気唇で反芻した。
何か魚の一種だろうか?

「一馬が芽衣に言っていた。イチビッタラ、ケガスル」

ああ、とにっこり頷いて、

「調子に乗ってふざけていたら、怪我をするよって、京都弁ですね」

ジェイは、今さらながら気づいたという表情で、腰を上げてベッドに座り直すと、きょとんとする澪の顔を覗き込んだ。

「澪は、訛がない」

澪はバツ悪く苦笑った。

関西人は標準語を、〈冷たい〉とか〈気取っている〉と嫌う。
矯正しようと試みた時期もあったけど、イントネーションの壁は乗り越えられず、かえって〈エセ関西弁〉と千世に非難され、諦めたという経緯がある。

「東京の出身?」

「生まれは鹿児島です。枕崎という港町。小学校入学のときに東京へ引き取られたので、方言はもう覚えていませんし、京都に引っ越してきたのは中学生でしたから、関西弁にもなじめなくて……」

「引き取られた? 澪は、養女なのか?」

つい使った単語を反復され、澪ははっとした。
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