桜ふたたび 前編

2、春風のせい

春の陽がすっかり暮れ、鴨川の流れに対岸の店の朱色の灯りがゆらめいている。

四条大橋から〝等間隔に並ぶカップル〞を見下ろして、八つ当たりの毒を吐く千世の声を、仕方がないかと川風に流し、澪は川のほとりに目をやった。
上流の北山で雨があったのか、川瀬の水草が、いつもより速い流れに辛抱強くたなびいている。

橋を渡りすぐ右へ折れると、先斗町(ぽんとちょう)通り。
紅殻格子に虫籠窓、犬矢来。昔ながらの家並みが続くだんだら模様の石畳に、小さな料理屋や割烹が肩寄せ合って軒を連ねている。

四条通りと三条通りのほぼ中間、青い千鳥が描かれた〈通り抜けできまへん〉の案内板が掲げられた路地(ろーじ)の奥に、ふたりの目当ての店がある。

ひと一人通るのが精一杯。元お茶屋の二階下をくぐって進むと、ぽつんと一軒、灯の点った赤い鴨川千鳥の白提灯が目に入る。〝里〞と葡萄茶に染め抜かれた麻暖簾が、夜風に静かに揺れていた。

引き戸に手をかけ振り返った千世が、おやっと澪の頭の後ろを覗き込むように、背中を反らせた。

「澪、かんざしは?」

澪は襟足に手をやり、眉を曇らせた。

撥型の鼈甲に胡蝶の蒔絵と螺鈿、本真珠をあしらったかんざしは、祖母の唯一の形見だ。
路地裏に入るとき、巨漢の外国人とぶつかったから、弾みで落としたのかもしれない。

「ごめん、先に入ってて。探してくる」

言うが早いか踵を返し、忙しく地面に視線を這わせながら来た道を辿る。
辺りは足下もおぼつかない薄暗さ。木壁のぼんぼりと、数軒の玄関灯だけが、頼りない灯りを落としていた。

──やっぱり、あのとき落としたのかな?

路地の先に目をやると、ひとりの男性のシルエットがあった。案内板を見上げ、狭い入り口を塞ぐように立っている。

その手に見覚えのある影。
澪は思わず駆け寄った。
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