義弟の甘い罠は壊れるほど狂おしく【長編版】

2・夫の遺言


 それからというもの、私は悲しみを振り払うように仕事に打ち込んだ。法律事務所の人たちは温かく接してくれ、仕事に集中している間だけは彰人さんへの想いを忘れることができた。
 四十九日が明けた頃、少しずつ心の整理がついてきた私は、ようやく遺品の整理に取り掛かることにした。
 
 クローゼットにしまわれていた箱を開けると、懐かしいものが次々と出てくる。写真や手紙、そしてふと目に留まったのは、一冊の日記だった。
 表紙には彰人さんの名前が記されている。

「彰人さん……。日記なんて書いていたの?」
 
 ページをめくると、そこには私と結婚してからの日々が綴られていた。

「こんなこともあったな……」

 思い出が鮮明によみがえる。
 私たちが初めて一緒に旅行に行った日のこと、些細な喧嘩、そしてお互いを思いやった瞬間。私は思わず微笑んだ。

 最初の数ページは丁寧に読んでいたけれど思っていたよりも分厚く、めくってもめくっても終わりが見えなくて。途中から流れるようにページを追っていた。
 しかし、最後の方のページに辿り着いたとき、目に飛び込んできた言葉に心が凍りついた。

《もし自分の身に何かあれば離縁して、菜月には自由に生きてほしい》

 変わらず丁寧な筆跡で書かれた彰人さんの文字。
 それが、私の心に重くのしかかる。

(お父様と同じことを……)

 彰人さんなりの不器用な優しさ。でも、私の気持ちはどうなるの?
 私はまだ、彰人さんを愛しているのに──。
 胸の奥が締め付けられるように痛む。
 指先は震え、視線は文字の上を彷徨っていた。
 
 そうだ、私は彰人さんを愛している。
 お父様も彰人さんも、私の将来を思って離縁しなさいと言ってくれたんだろうけど、私には考えられない。
 気づけば涙が頬を伝い、日記の上に落ちた。
 慌てて指で拭いながら、ポツリと呟く。

「私にはできない……」
 
 日付を見ると、それは彰人さんが亡くなる前日だった。
 このページが最後かと思って日記を閉じかけたとき、ふと違和感を覚えた。

(涙が……滲んで……)

 何も書かれていない部分に落ちた涙。その涙で、インクが滲んでいるように見えた。
 なんだろう、この感じ──胸の奥に引っかかるようなざわめき。
 もう一枚だけ、とページをめくる。
 その瞬間、目に飛び込んできた一文に、心臓が大きく跳ねた。

《律には気をつけろ》

「……!」

 言葉にならない声が喉に詰まる。
 頭の中に警鐘が鳴り響くような感覚だった。
 なんでこんなことが書いてあるの? なぜ律のことを──?

 心臓の鼓動が早まる。視界がじんわりと揺れる。
 混乱と不安がぐるぐると渦を巻き、思考が追いつかない。

 そのとき、不意に背後から声がした。

「姉さん」

 私は反射的にビクッとして、慌てて日記を閉じた。
 振り返ると、そこには律が立っていた。いつものように、穏やかな笑顔を浮かべている。

「玄関、開いてたよ。不用心だなー」

 ゴミを出しに外へ出た後に閉め忘れただろうか。
 私は後ろ手に日記を隠しながら、必死に平静を装った。

「そ、そう……。ごめんね、気づかなくて。何か用だった?」

 律は少し首をかしげ、笑顔のまま私を見つめる。

「いや、ちょっと顔を見に来ただけ。それにしても元気そうで良かった」

 柔らかい声が耳に届く。普段と変わらない、可愛らしい義弟の律。
 だけど、さっきの日記の言葉が私の頭から離れない。
 
(どういうことなの、彰人さん……?)

 背後に隠した日記を掴む手が、じっとりと湿っていた。
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