クールな上司の〝かわいい〟秘密 ――恋が苦手なふたりは互いの気持ちに気づけない

第三章 恋に踏み出せないふたり

 酔った上司に、キスを迫られた。
 まさか自分がそんな目に遭うなんて思ってもいなかったが、流された私も私だと思う。

(まさか〝推し〟に押されるなんて……)

 逃げ帰ったその夜、彼の傘を手に家路を歩きながら、私は猛反省していた。
 脳裏を過るのは、私の失言とその後のことだ。

『か、かわいい……?』

 はっと顔を上げた彼は、相当衝撃を受けたような顔をしていた。

『ごめんなさい、他意はないです』

 そんなことを言ったら、ますます他意があるようだ。というか、こんな言葉には他意しかないだろう。
 少し考えれば分かることなのに、咄嗟のことでそれしか出てこなかった。

 ポタポタという雨垂れの音が、やけにうるさい。誰のためにしたのか分からないおしゃれなワンピースでは、足元がやたらと冷える。

(だから、〝かわいい〟なんて男性に言っちゃいけなかったのに)

 もう十年以上前の出来事なのに、あの時の感情が鮮明に蘇る。初恋が破れた後の、つらく苦しく、悲しい日々だ。
 私はつい傘の黒い柄をぎゅっと握った。だが、これが彼の貸してくれた傘だということが、余計に私の心を分厚い雲で覆う。

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