追放された薬師ですが、冷酷侯爵に溺愛されて辺境でスローライフ始めます

第2章 不穏な予兆

朝の薬房は、喧騒に包まれていた。
リディアは、薬棚の前で在庫を確認していた。羊皮紙に、薬草の名前と数量を書き込んでいく。だが、周囲の騒がしさに、集中できない。
薬房の入口には、長い行列ができていた。
貴族の夫人たち。
豪華なドレスを着た彼女たちが、扇を手に、互いに囁き合いながら順番を待っている。
「今月も、セレナ様の秘薬を」
「あれがないと、もう肌が保てないわ」
「本当に。魔法のような効果よね」
リディアは、横目で行列を見た。
彼女たちが求めているのは、セレナの「美容秘薬」だ。若返りと美肌効果があるとされる、王宮で最も人気の薬。セレナが独占的に調合し、貴族たちに高値で販売している。
リディアは、薬棚に戻った。だが、心の中で疑問が膨らんでいた。
あの秘薬は、本当に安全なのだろうか? 
「リディア」
声がして、リディアは振り向いた。セレナが、優雅に近づいてくる。
「在庫整理、ご苦労様」
「はい、セレナ様」
リディアは、頭を下げた。
「ちょうどいいわ。秘薬の在庫を確認してちょうだい。棚の奥に、成分リストがあるはずよ」
セレナは、そう言って、行列の貴族夫人たちの方へ歩いて行った。
リディアは、薬棚の奥を見た。
成分リスト。
リディアは、梯子を登り、棚の最上段に手を伸ばした。埃をかぶった木箱がある。それを引き出し、蓋を開ける。
中には、羊皮紙の束が入っていた。
リディアは、一枚を取り出した。
「美容秘薬——成分配合表」
リディアは、目を凝らした。
羊皮紙には、薬草の名前と、その配合比が細かく書かれている。
リディアは、一つ一つの成分を読んでいった。
そして、ある箇所で、手が止まった。
「赤い蔓草の根……30%」
「月光花の花粉……15%」
「魔晶石の粉末……20%」
リディアの脳裏に、前世の記憶が蘇った。
化学式。
依存性薬物の、配合比。
リディアは、息を呑んだ。
これは——。
赤い蔓草の根は、前世で言う「アルカロイド系」の成分を含む。月光花の花粉は、神経刺激作用がある。そして、魔晶石の粉末は、魔力を増幅させるが、同時に神経系に負担をかける。
この配合比は、依存性薬物のそれに、酷似している。
リディアは、手が震えた。
もし、これが本当なら——。
セレナの秘薬は、使用者を依存させ、薬なしでは生きられない体にしてしまう。
リディアは、羊皮紙を凝視した。
だが、証拠はない。
これは、単なる配合表だ。実際に依存性があるかどうか、確かめる術はない。
「リディア」
声がして、リディアは飛び上がった。
梯子の下に、セレナが立っていた。
碧眼が、冷たくリディアを見上げている。
「何を見ているの?」
「あ、いえ……在庫を、確認していて……」
リディアは、慌てて羊皮紙を木箱に戻した。
「そう」
セレナは、静かに言った。
「リディア、余計な詮索は身のためよ」
リディアは、息を呑んだ。
セレナの声は、優雅だが、棘がある。
「あなたには、理解できないでしょうけど。秘薬の調合は、高度な技術が必要なの。素人が口を出すことではないわ」
「……はい」
リディアは、小さく答えた。
セレナは、微笑んだ。だが、その笑みは、目に届いていない。
「在庫確認が終わったら、報告してちょうだい」
セレナは、踵を返し、再び貴族夫人たちの方へ歩いて行った。
リディアは、梯子の上で、セレナの背中を見つめた。
手が、震えている。
セレナは、知っている。
リディアが、何かに気づいたことを。
リディアは、梯子を降りた。
薬棚の陰に身を隠し、懐から小さなメモ帳を取り出す。
そして、急いで書き込んだ。
「赤い蔓草の根——30%」
「月光花の花粉——15%」
「魔晶石の粉末——20%」
リディアは、メモ帳を懐にしまった。
証拠は、まだない。
だが、これは、確実に何かの手がかりだ。
リディアは、薬棚の陰から、行列を見た。
貴族夫人たちが、笑顔でセレナから小瓶を受け取っている。
赤い液体が、小瓶の中で揺れている。
リディアは、拳を握った。
もし、あれが本当に依存性薬物なら——。
リディアは、胸の奥に、冷たいものが走るのを感じた。
前世と、同じだ。
利益のために、人の命を危険に晒す。
リディアは、唇を噛んだ。
今度こそ、阻止しなければ。
午後、王宮の廊下を歩いていると、リディアは囁き声を聞いた。
「陛下が、お倒れになったそうよ」
「まあ、本当に?」
侍女たちが、壁際で小声で話している。リディアは、足を止めた。
「侍医団が、総出で診察しているらしいわ」
「原因は、わかっているの?」
「いいえ、誰もわからないそうよ」
侍女たちは、不安そうに顔を見合わせた。
国王陛下の、体調不良。
リディアは、胸騒ぎを覚えた。
「リディア様」
声がして、リディアは振り向いた。侍医団の助手が、息を切らして駆けてくる。
「侍医長が、お呼びです。すぐに来てください」
「わかりました」
リディアは、助手の後を追った。
王宮の奥、国王の私室がある区画へ。
廊下には、貴族たちが集まっていた。彼らは、ひそひそと囁き合い、不安げに寝室の扉を見つめている。
リディアは、侍医団の控室に入った。
侍医長が、疲れた顔で机に向かっている。その周りに、数人の侍医たちが立っていた。
「リディア、来たか」
侍医長は、リディアを見た。
「薬草の在庫を、至急確認してほしい。陛下の治療に必要になるかもしれん」
「はい。ですが……陛下は、一体何が?」
侍医長は、ため息をついた。
「原因不明だ。倦怠感、記憶障害……数日前から、症状が出始めた。だが、どの薬も効かない」
リディアは、息を呑んだ。
倦怠感と、記憶障害。
「侍医長、陛下のお顔を、拝見してもよろしいでしょうか?」
侍医長は、眉をひそめた。
「何故だ?」
「在庫を確認する前に、症状を正確に把握したいのです」
侍医長は、しばらくリディアを見つめていた。そして、頷いた。
「よかろう。だが、遠くからだけだ」
リディアは、侍医長に連れられ、国王の寝室の扉の前に立った。
扉が、わずかに開かれている。
リディアは、その隙間から中を覗いた。
豪華な天蓋付きのベッドに、国王が横たわっていた。
リディアは、息を呑んだ。
国王の顔は、青白く、頬はこけている。目は虚ろで、焦点が定まっていない。唇は乾き、呼吸は浅い。
侍医が、国王の脈を取っている。だが、国王は、まるで侍医の存在に気づいていないかのように、ただ天井を見つめていた。
リディアは、その姿を見て、胸が締め付けられた。
前世の記憶が、蘇る。
製薬会社の病院。
薬物中毒患者の、病室。
彼らも、同じような顔をしていた。青白く、虚ろで、生気がない。依存性薬物の長期使用による、神経系の破壊。
リディアは、拳を握った。
症状が、一致する。
国王は、薬物中毒なのではないか? 
「リディア、もういいだろう」
侍医長が、扉を閉じた。リディアは、侍医長を見た。
「侍医長、陛下は……何か、特別な薬を、服用されていませんか?」
侍医長は、首を横に振った。
「通常の滋養薬のみだ。セレナ殿が調合した、魔力強化薬をな」
リディアは、息を呑んだ。
セレナの、薬。
「それは……いつから?」
「半年ほど前からだ。陛下の体力が衰えたため、セレナ殿が献上した」
リディアは、唇を噛んだ。
半年前から、セレナの薬を服用している。
そして今、国王は薬物中毒の症状を示している。
リディアは、背筋が凍るのを感じた。
「在庫確認、急いでくれ」
侍医長は、そう言って、再び寝室の中へ入って行った。
リディアは、廊下に一人残された。
廊下の向こうで、貴族たちが囁き合っている。
「陛下が、こんなことになるなんて……」
「もし、陛下が……」
「王位継承は、どうなるのだ?」
不安と、混乱。
リディアは、廊下を歩き出した。
だが、角を曲がったところで、足を止めた。
廊下の奥、人目につかない場所で、二人の人影が立っていた。
セレナと、アルヴィン。
リディアは、壁に身を寄せた。
二人は、小声で話している。
「……計画通りね」
セレナの声だ。
リディアは、息を潜めた。
「本当に、大丈夫なのか?」
アルヴィンの声が、不安げに響く。
「大丈夫よ。誰も気づいていないわ。陛下の症状は、原因不明とされている」
「だが、もし誰かが……」
「誰も、疑いはしないわ。私の薬は、完璧なのだから」
セレナの声が、冷たく笑った。
リディアは、背筋が凍った。
計画通り。
誰も気づいていない。
私の薬は、完璧。
リディアは、拳を握った。
セレナは、国王を——。
「リディア様?」
声がして、リディアは飛び上がった。
侍医団の助手が、廊下の角から顔を出している。
「在庫確認は、まだですか?」
「あ、はい……すぐに」
リディアは、助手の方へ歩いた。
だが、廊下の奥を振り返る。
セレナとアルヴィンの姿は、もうなかった。
リディアは、胸の奥に、冷たいものが走るのを感じた。
国王は、セレナの薬で、中毒にされている。
そして、セレナとアルヴィンは、それを計画していた。
リディアは、唇を噛んだ。
証拠は、まだない。
だが、真実は、そこにある。
リディアは、薬房へと急いだ。
夜。
リディアは、自室の机に向かっていた。
蝋燭の灯りだけが、部屋を照らしている。
リディアは、前世ノートを開いた。
羽根ペンを手に取り、インクを浸す。
そして、震える手で、書き込んだ。
「セレナの秘薬=依存性物質?」
ペン先が、紙の上を滑る。
リディアは、さらに書き続けた。
「赤い蔓草の根——アルカロイド系。神経刺激作用」
「月光花の花粉——依存性形成の可能性」
「魔晶石の粉末——魔力増幅、神経負荷」
「配合比——前世の依存性薬物と酷似」
リディアは、ペンを置いた。
ノートを見つめる。
証拠は、これだけだ。
成分リストのメモと、国王の症状。
そして、セレナとアルヴィンの、密会での会話。
「計画通り」
リディアは、拳を握った。
だが、これだけでは、何も証明できない。
誰が、信じてくれるだろうか? 
侍医長に、報告するか? 
だが、侍医長はセレナを信頼している。「セレナ殿が調合した薬」と、疑いもなく言っていた。
アルヴィンに、訴えるか? 
だが、アルヴィンはセレナの共犯者だ。彼は、セレナと共に、国王を——。
リディアは、頭を抱えた。
誰にも、言えない。
誰も、信じてくれない。
証拠がないからだ。
リディアは、ノートを閉じた。
そして、窓の方を見た。
窓の外は、暗い。
空を見上げると、月が見えた。
だが、月は、雲に覆われていた。
厚い、黒い雲。
月の光は、わずかに雲の隙間から漏れているだけだ。
リディアは、窓に近づいた。
冷たいガラスに、手を当てる。
雲が、ゆっくりと動いている。
まるで、何かを隠すかのように。
リディアは、胸の奥に、冷たいものが走るのを感じた。
不穏だ。
何かが、起ころうとしている。
だが、リディアには、何もできない。
リディアは、窓から離れた。
机に戻り、ノートを手に取る。
開いて、自分が書いた文字を見つめた。
「セレナの秘薬=依存性物質?」
問いかけの形。
確信ではない。
リディアは、唇を噛んだ。
また、前世と同じだ。
リディアは、前世でも、薬害事件を告発しようとした。
だが、誰も信じてくれなかった。
「証拠不十分」
「君の主張は、信憑性に欠ける」
上司も、同僚も、外部機関も、誰もリディアの言葉を信じなかった。
そして、リディアは孤立した。
今世でも、同じことが起ころうとしている。
リディアには、証拠がない。
成分リストのメモと、断片的な会話。
それだけでは、誰も動かない。
リディアは、ノートを机に叩きつけた。
音が、部屋に響く。
リディアは、両手で顔を覆った。
無力だ。
何もできない。
真実を訴えても、誰も聞いてくれない。
リディアは、涙が込み上げるのを感じた。
だが、涙は出なかった。
ただ、胸が、苦しい。
リディアは、手を下ろした。
そして、ベッドの方へ歩いた。
ベッドに座り、薄い毛布を手に取る。
リディアは、そのままベッドに倒れ込んだ。
顔を、枕に埋める。
暗闇の中、リディアは小さく呟いた。
「せめて、誰か一人でも、救えたら……」
祈るように。
願うように。
だが、その声は、誰にも届かない。
リディアは、目を閉じた。
蝋燭の灯りが、揺れている。
部屋は、静寂に包まれた。
窓の外で、風が吹いている。
雲が、月を覆い隠している。
リディアは、ただ横たわっていた。
胸の奥の、冷たいものが、消えない。
無力感が、リディアを押し潰そうとしている。
だが、リディアは、まだ諦めていなかった。
諦められなかった。
前世で、果たせなかったこと。
この世界で、必ず果たす。
たとえ、誰も信じてくれなくても。
たとえ、一人きりでも。
リディアは、拳を握った。
枕に顔を埋めたまま、小さく、小さく、呟いた。
「誰か……一人でも……」
その声は、闇に消えた。
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