追放された薬師ですが、冷酷侯爵に溺愛されて辺境でスローライフ始めます
第3章 濡れ衣
早朝。
リディアは、まだ眠りから覚めきらないまま、廊下を走っていた。
侍医団の助手が、部屋の扉を激しく叩いて起こしたのは、ほんの数分前だ。
「侍医長が、緊急召集です! すぐに来てください!」
リディアは、着替える間もなく、廊下を駆けた。
侍医団の控室に着くと、扉が開け放たれていた。
中には、侍医長と数人の侍医たちが集まっている。
「リディア、来たか」
侍医長は、疲労困憊した顔でリディアを見た。
「陛下の容態が、急激に悪化された。今すぐ、治療薬を調合せねばならん」
リディアは、息を呑んだ。
「悪化……ですか?」
「昨夜から、意識が混濁し始めた。このままでは……」
侍医長は、言葉を濁した。
リディアは、拳を握った。
やはり、薬物中毒だ。
セレナの薬が、国王を蝕んでいる。
「リディア、お前は薬草の知識がある。何か、陛下を救う方法はないか?」
侍医長が、リディアに問いかけた。
リディアは、一瞬躊躇した。
だが、意を決して口を開いた。
「侍医長、私には……一つ、提案があります」
「言ってみよ」
リディアは、深呼吸をした。
「陛下の症状は、薬物の過剰摂取による中毒症状に似ています。ですから、まずは解毒が必要です」
侍医たちが、ざわめいた。
「解毒? 陛下は、毒など盛られていないぞ」
「いえ、薬も、使い方を誤れば毒になります」
リディアは、続けた。
「解毒薬と共に、栄養補給の薬草を併用します。陛下の体力を回復させながら、体内の毒素を排出させるのです」
「そんな方法が、あるのか?」
侍医長が、眉をひそめた。
「はい。前世……いえ、私が学んだ薬学では、このような複合療法が有効とされています」
リディアは、必死に説明した。
「具体的には、白い根草を煎じた解毒薬と、黄色い花の栄養薬を——」
「待ちなさい」
声が、割り込んだ。
リディアは、振り向いた。
セレナが、控室の入口に立っていた。
豪華なドレスを着て、優雅に微笑んでいる。
「セレナ殿」
侍医長が、頭を下げた。
「お呼びしていないが……」
「陛下の容態が悪化したと聞いて、駆けつけましたの」
セレナは、部屋の中に入ってきた。そして、リディアを見た。
「リディア、今、何を言っていたの?」
「解毒と栄養補給の、複合療法を提案していました」
リディアは、セレナの目を見て答えた。
セレナは、鼻で笑った。
「まあ。素人の暴走ね」
「素人……?」
「そうよ。あなた、薬学の基本を理解していないのね」
セレナは、侍医長の方を向いた。
「侍医長、陛下に必要なのは、解毒などではありません。魔力強化薬です」
「魔力強化薬……?」
「そうです。陛下の体力が衰えているのは、魔力が不足しているからです。ですから、魔力を補充すれば、容態は回復します」
セレナは、懐から小瓶を取り出した。
中には、鮮やかな赤い液体が入っている。
「これが、私が調合した最高級の魔力強化薬です。これを陛下に投与すれば、すぐに回復されるでしょう」
侍医たちが、セレナの小瓶を見つめた。
「ですが、セレナ様」
リディアが、声を上げた。
「陛下の症状は、魔力不足ではなく、薬物の過剰摂取によるものです。さらに魔力強化薬を投与すれば、症状が悪化する可能性が——」
「可能性?」
セレナは、冷たく笑った。
「あなた、可能性で陛下の命を危険に晒すつもり? 私の薬は、確実に効果があるのよ」
「でも——」
「リディア」
侍医長が、リディアを遮った。
「セレナ殿の言う通りだ。魔力強化薬は、これまで陛下に効果があった。今回も、それを使うべきだろう」
リディアは、息を呑んだ。
「侍医長、お願いです。少なくとも、解毒薬を試してから——」
「リディア、お前の提案は聞いた。だが、今は確実な方法を取るべきだ」
侍医長は、セレナの方を向いた。
「セレナ殿、その薬を、陛下に投与してくれ」
「喜んで」
セレナは、微笑んだ。
そして、リディアを見た。
その目には、勝利の色が浮かんでいる。
リディアは、唇を噛んだ。
拳を、握る。
爪が、掌に食い込む。
痛みが、走る。
だが、それ以上に、胸が痛かった。
無力だ。
何も、できない。
リディアの提案は、却下された。
セレナの薬が、採用された。
そして、国王は——。
リディアは、震えた。
無力感が、全身を包む。
セレナは、侍医長と共に、国王の寝室へと向かった。
リディアは、控室に一人残された。
侍医たちも、ぞろぞろと寝室の方へ歩いて行く。
リディアは、その場に立ち尽くしていた。
拳を、握ったまま。
唇を、噛んだまま。
ただ、震えていた。
数日後。
王宮は、混乱に包まれていた。
廊下を歩く貴族たちの顔は、皆一様に青ざめている。
「陛下が、昏睡状態に……」
「一体、何が起こったのだ?」
「誰かが、陛下を……」
囁き声が、廊下中に満ちていた。
リディアは、薬房の隅で、在庫整理をしていた。
だが、手が震えて、薬草の瓶をうまく持てない。
国王は、セレナの魔力強化薬を投与された。
そして、一時的に回復したかに見えた。
だが、それは束の間のことだった。
翌日、国王の容態は急激に悪化した。
意識を失い、今は昏睡状態に陥っている。
リディアは、それを聞いた時、全身が凍りついた。
やはり、薬物中毒だ。
セレナの薬が、国王を殺そうとしている。
「リディア様」
声がして、リディアは振り向いた。
侍医団の助手が、青い顔で立っている。
「謁見の間に、来てください。すぐに」
「謁見の間……?」
「はい。侍医長と、セレナ様が、お待ちです」
リディアは、胸騒ぎを覚えた。
だが、従うしかない。
リディアは、助手の後を追った。
謁見の間は、貴族たちで溢れかえっていた。
壇上には、侍医長とセレナが立っている。
そして、その隣には、アルヴィンの姿もあった。
リディアは、入口で立ち止まった。
セレナが、リディアを見た。
その目は、冷たく笑っている。
「リディア、こちらへ」
侍医長が、リディアを手招いた。
リディアは、貴族たちの間を歩いた。
彼らは、リディアを見て、ひそひそと囁き合う。
「あれが、リディアか……」
「第3王子の婚約者だった……」
リディアは、壇上の前に立った。
侍医長は、重い表情で口を開いた。
「リディア・アーシェンフェルト。陛下の容態悪化について、説明を求める」
リディアは、息を呑んだ。
「説明……ですか?」
「そうだ。陛下に投与した薬草に、問題があったのではないかと……」
「いいえ、私は——」
「リディア」
セレナが、優雅に割り込んだ。
「あなた、薬草の仕入れを担当していたわね?」
「はい、ですが——」
「その薬草に、誤りがあったのではないかしら?」
セレナは、貴族たちの方を向いた。
「皆様、実は私、調査いたしましたの。そして、わかったのです。リディアが仕入れた薬草の中に、毒性の高いものが混入していたことを」
貴族たちが、ざわめいた。
「毒性……?」
「本当か?」
リディアは、顔が青ざめた。
「そんな……そんなことは……」
「証拠もありますわ」
セレナは、羊皮紙を取り出した。
「これが、リディアの仕入れリストです。ここに、本来使ってはならない薬草の名前が記されています」
侍医長が、羊皮紙を受け取り、目を通した。
そして、リディアを見た。
「リディア、これは本当か?」
「いえ、私はそんな薬草を仕入れていません! それは偽造です!」
リディアは、必死に訴えた。
だが、セレナは冷たく微笑んだ。
「偽造? あなた、自分の過ちを認めないつもり?」
「私は過ちなど犯していません!」
「では、誰が陛下を、このような状態にしたというの?」
セレナの声が、鋭くなった。
リディアは、息を呑んだ。
言えない。
セレナが犯人だと、証拠もなしに言えば、逆にリディアが嘘つき呼ばわりされる。
「リディア」
アルヴィンが、口を開いた。
リディアは、彼を見た。
アルヴィンは、冷たい目でリディアを見ていた。
「婚約者として、責任を取ってもらう」
「アルヴィン様……」
「今、ここで宣言する」
アルヴィンは、貴族たちの方を向いた。
「リディア・アーシェンフェルトとの婚約を、破棄する」
貴族たちが、どよめいた。
リディアは、その場に立ち尽くした。
婚約破棄。
公式に。
民衆の前で。
「婚約者の不始末は、俺の責任でもある。だが、これ以上、彼女を庇うことはできない」
アルヴィンは、そう言い放った。
リディアは、拳を握った。
爪が、掌に食い込む。
「リディア・アーシェンフェルト」
侍医長が、厳かに言った。
「お前を、陛下毒殺未遂の容疑で、追放する」
貴族たちが、一斉にリディアを見た。
そして、誰かが叫んだ。
「毒殺者!」
石が、飛んできた。
リディアの頬に、当たる。
痛みが、走る。
「陛下を殺そうとした!」
「許せない!」
次々と、石が飛んでくる。
リディアは、腕で顔を覆った。
石が、腕に当たる。
痛い。
だが、それ以上に、心が痛かった。
「毒殺者!」
「追放しろ!」
「死刑にしろ!」
罵声が、リディアを包む。
リディアは、涙をこらえた。
泣かない。
ここで泣いたら、認めたことになる。
リディアは、歯を食いしばった。
石が、また飛んでくる。
リディアの額に当たり、血が流れる。
リディアは、膝をついた。
貴族たちが、さらに石を投げる。
リディアは、ただ耐えた。
壇上で、セレナが微笑んでいる。
アルヴィンは、無表情だ。
侍医長は、目を逸らしている。
誰も、リディアを助けない。
誰も、信じてくれない。
リディアは、拳を握った。
血が、掌から滴り落ちる。
だが、涙は、流さなかった。
夜。
リディアは、牢屋の冷たい石床に座っていた。
暗闇の中、わずかな月明かりが、鉄格子の隙間から差し込んでいる。
リディアの手首と足首には、鎖がつけられていた。
重い。
冷たい。
リディアは、壁に背中を預けた。
額の傷が、まだ痛む。
頬も、腕も、石で打たれた跡が残っている。
だが、体の痛みよりも、心の痛みの方が大きかった。
婚約破棄。
追放。
毒殺者。
リディアは、目を閉じた。
前世と、同じだ。
誰も、信じてくれない。
真実を訴えても、誰も聞いてくれない。
リディアは、拳を握った。
鎖が、音を立てる。
朝。
牢屋の扉が、開いた。
衛兵が、二人入ってくる。
「リディア・アーシェンフェルト、立て」
リディアは、立ち上がった。
体が、重い。
一晩中、眠れなかった。
「判決が下された。辺境追放だ」
衛兵が、無表情に告げた。
「辺境……」
「北の果て、荒野の地だ。お前はそこへ護送される」
リディアは、唇を噛んだ。
辺境追放。
事実上の、死刑宣告だ。
荒野には、魔獣が徘徊している。食料も水も乏しい。そこで生き延びることは、ほぼ不可能だ。
「わかりました」
リディアは、小さく答えた。
衛兵は、鎖を外し、リディアを牢屋の外へ連れ出した。
廊下を歩く。
冷たい石壁が、両側に続いている。
「リディア」
声がして、リディアは足を止めた。
廊下の向こうから、一人の女性が歩いてくる。
セレナだ。
豪華なドレスを着て、優雅に微笑んでいる。
「セレナ様……」
衛兵が、頭を下げた。
「少し、彼女と話がしたいの。よろしいかしら?」
「はい、どうぞ」
衛兵たちは、少し離れた場所へ下がった。
セレナは、リディアの前に立った。
そして、微笑んだ。
「リディア、元気そうね」
リディアは、何も言わなかった。
セレナは、リディアの顔を見つめた。
「傷だらけね。可哀想に」
だが、その声には、同情のかけらもない。
セレナは、声を潜めた。
「あなたは、邪魔だったの」
リディアは、息を呑んだ。
「邪魔……?」
「そうよ。あなた、余計な詮索をしていたでしょう? 私の秘薬のこと、国王陛下のこと」
セレナの目が、冷たく光った。
「だから、消す必要があったの。消えてくれて、助かるわ」
リディアは、怒りで震えた。
「あなた……国王陛下を……」
「ええ、私よ」
セレナは、あっさりと認めた。
「陛下は、もう長くない。そして、次の王は……アルヴィン様が相応しいわ」
「あなた……!」
リディアは、セレナに掴みかかろうとした。
だが、鎖が体を引っ張る。
リディアは、その場で倒れそうになった。
セレナは、笑った。
「無駄よ、リディア。あなたには、もう何もできない」
セレナは、踵を返した。
「さようなら、リディア。二度と、会うことはないでしょうね」
セレナは、廊下を優雅に歩いて行った。
リディアは、その背中を睨みつけた。
拳を、握る。
だが、リディアは、何も言えなかった。
鎖が、体を縛っている。
無力だ。
セレナは、廊下の向こうへ消えた。
衛兵たちが、再びリディアの元へ来た。
「行くぞ」
リディアは、引きずられるように歩き出した。
牢屋の外。
護送馬車が、待っていた。
黒い、囚人用の馬車だ。
護送兵が、数人立っている。
「リディア・アーシェンフェルト、これより辺境へ護送する」
兵士の一人が、リディアの手首に手錠をかけた。
冷たい金属が、肌に食い込む。
リディアは、馬車の荷台に乗せられた。
荷台は、狭く、暗い。
窓もない。
リディアは、隅に座った。
馬車が、動き出した。
ガタガタと、揺れる。
リディアは、荷台の隙間から、外を見た。
王宮が、遠ざかっていく。
白い石造りの、美しい城。
だが、その中には、腐敗がある。
セレナの陰謀。
アルヴィンの裏切り。
リディアは、拳を握った。
いつか、戻ってくる。
いつか、真実を証明する。
セレナを、許さない。
アルヴィンも、許さない。
リディアは、王宮を睨みつけた。
馬車は、門をくぐり、王都を出た。
王宮が、視界から消える。
リディアは、手錠をつけられた手を見た。
鎖が、揺れている。
リディアは、小さく呟いた。
「いつか、真実を証明する」
その声は、誰にも聞こえない。
だが、リディアの心には、確かに刻まれた。
馬車は、荒野へと向かって、走り続けた。
リディアは、まだ眠りから覚めきらないまま、廊下を走っていた。
侍医団の助手が、部屋の扉を激しく叩いて起こしたのは、ほんの数分前だ。
「侍医長が、緊急召集です! すぐに来てください!」
リディアは、着替える間もなく、廊下を駆けた。
侍医団の控室に着くと、扉が開け放たれていた。
中には、侍医長と数人の侍医たちが集まっている。
「リディア、来たか」
侍医長は、疲労困憊した顔でリディアを見た。
「陛下の容態が、急激に悪化された。今すぐ、治療薬を調合せねばならん」
リディアは、息を呑んだ。
「悪化……ですか?」
「昨夜から、意識が混濁し始めた。このままでは……」
侍医長は、言葉を濁した。
リディアは、拳を握った。
やはり、薬物中毒だ。
セレナの薬が、国王を蝕んでいる。
「リディア、お前は薬草の知識がある。何か、陛下を救う方法はないか?」
侍医長が、リディアに問いかけた。
リディアは、一瞬躊躇した。
だが、意を決して口を開いた。
「侍医長、私には……一つ、提案があります」
「言ってみよ」
リディアは、深呼吸をした。
「陛下の症状は、薬物の過剰摂取による中毒症状に似ています。ですから、まずは解毒が必要です」
侍医たちが、ざわめいた。
「解毒? 陛下は、毒など盛られていないぞ」
「いえ、薬も、使い方を誤れば毒になります」
リディアは、続けた。
「解毒薬と共に、栄養補給の薬草を併用します。陛下の体力を回復させながら、体内の毒素を排出させるのです」
「そんな方法が、あるのか?」
侍医長が、眉をひそめた。
「はい。前世……いえ、私が学んだ薬学では、このような複合療法が有効とされています」
リディアは、必死に説明した。
「具体的には、白い根草を煎じた解毒薬と、黄色い花の栄養薬を——」
「待ちなさい」
声が、割り込んだ。
リディアは、振り向いた。
セレナが、控室の入口に立っていた。
豪華なドレスを着て、優雅に微笑んでいる。
「セレナ殿」
侍医長が、頭を下げた。
「お呼びしていないが……」
「陛下の容態が悪化したと聞いて、駆けつけましたの」
セレナは、部屋の中に入ってきた。そして、リディアを見た。
「リディア、今、何を言っていたの?」
「解毒と栄養補給の、複合療法を提案していました」
リディアは、セレナの目を見て答えた。
セレナは、鼻で笑った。
「まあ。素人の暴走ね」
「素人……?」
「そうよ。あなた、薬学の基本を理解していないのね」
セレナは、侍医長の方を向いた。
「侍医長、陛下に必要なのは、解毒などではありません。魔力強化薬です」
「魔力強化薬……?」
「そうです。陛下の体力が衰えているのは、魔力が不足しているからです。ですから、魔力を補充すれば、容態は回復します」
セレナは、懐から小瓶を取り出した。
中には、鮮やかな赤い液体が入っている。
「これが、私が調合した最高級の魔力強化薬です。これを陛下に投与すれば、すぐに回復されるでしょう」
侍医たちが、セレナの小瓶を見つめた。
「ですが、セレナ様」
リディアが、声を上げた。
「陛下の症状は、魔力不足ではなく、薬物の過剰摂取によるものです。さらに魔力強化薬を投与すれば、症状が悪化する可能性が——」
「可能性?」
セレナは、冷たく笑った。
「あなた、可能性で陛下の命を危険に晒すつもり? 私の薬は、確実に効果があるのよ」
「でも——」
「リディア」
侍医長が、リディアを遮った。
「セレナ殿の言う通りだ。魔力強化薬は、これまで陛下に効果があった。今回も、それを使うべきだろう」
リディアは、息を呑んだ。
「侍医長、お願いです。少なくとも、解毒薬を試してから——」
「リディア、お前の提案は聞いた。だが、今は確実な方法を取るべきだ」
侍医長は、セレナの方を向いた。
「セレナ殿、その薬を、陛下に投与してくれ」
「喜んで」
セレナは、微笑んだ。
そして、リディアを見た。
その目には、勝利の色が浮かんでいる。
リディアは、唇を噛んだ。
拳を、握る。
爪が、掌に食い込む。
痛みが、走る。
だが、それ以上に、胸が痛かった。
無力だ。
何も、できない。
リディアの提案は、却下された。
セレナの薬が、採用された。
そして、国王は——。
リディアは、震えた。
無力感が、全身を包む。
セレナは、侍医長と共に、国王の寝室へと向かった。
リディアは、控室に一人残された。
侍医たちも、ぞろぞろと寝室の方へ歩いて行く。
リディアは、その場に立ち尽くしていた。
拳を、握ったまま。
唇を、噛んだまま。
ただ、震えていた。
数日後。
王宮は、混乱に包まれていた。
廊下を歩く貴族たちの顔は、皆一様に青ざめている。
「陛下が、昏睡状態に……」
「一体、何が起こったのだ?」
「誰かが、陛下を……」
囁き声が、廊下中に満ちていた。
リディアは、薬房の隅で、在庫整理をしていた。
だが、手が震えて、薬草の瓶をうまく持てない。
国王は、セレナの魔力強化薬を投与された。
そして、一時的に回復したかに見えた。
だが、それは束の間のことだった。
翌日、国王の容態は急激に悪化した。
意識を失い、今は昏睡状態に陥っている。
リディアは、それを聞いた時、全身が凍りついた。
やはり、薬物中毒だ。
セレナの薬が、国王を殺そうとしている。
「リディア様」
声がして、リディアは振り向いた。
侍医団の助手が、青い顔で立っている。
「謁見の間に、来てください。すぐに」
「謁見の間……?」
「はい。侍医長と、セレナ様が、お待ちです」
リディアは、胸騒ぎを覚えた。
だが、従うしかない。
リディアは、助手の後を追った。
謁見の間は、貴族たちで溢れかえっていた。
壇上には、侍医長とセレナが立っている。
そして、その隣には、アルヴィンの姿もあった。
リディアは、入口で立ち止まった。
セレナが、リディアを見た。
その目は、冷たく笑っている。
「リディア、こちらへ」
侍医長が、リディアを手招いた。
リディアは、貴族たちの間を歩いた。
彼らは、リディアを見て、ひそひそと囁き合う。
「あれが、リディアか……」
「第3王子の婚約者だった……」
リディアは、壇上の前に立った。
侍医長は、重い表情で口を開いた。
「リディア・アーシェンフェルト。陛下の容態悪化について、説明を求める」
リディアは、息を呑んだ。
「説明……ですか?」
「そうだ。陛下に投与した薬草に、問題があったのではないかと……」
「いいえ、私は——」
「リディア」
セレナが、優雅に割り込んだ。
「あなた、薬草の仕入れを担当していたわね?」
「はい、ですが——」
「その薬草に、誤りがあったのではないかしら?」
セレナは、貴族たちの方を向いた。
「皆様、実は私、調査いたしましたの。そして、わかったのです。リディアが仕入れた薬草の中に、毒性の高いものが混入していたことを」
貴族たちが、ざわめいた。
「毒性……?」
「本当か?」
リディアは、顔が青ざめた。
「そんな……そんなことは……」
「証拠もありますわ」
セレナは、羊皮紙を取り出した。
「これが、リディアの仕入れリストです。ここに、本来使ってはならない薬草の名前が記されています」
侍医長が、羊皮紙を受け取り、目を通した。
そして、リディアを見た。
「リディア、これは本当か?」
「いえ、私はそんな薬草を仕入れていません! それは偽造です!」
リディアは、必死に訴えた。
だが、セレナは冷たく微笑んだ。
「偽造? あなた、自分の過ちを認めないつもり?」
「私は過ちなど犯していません!」
「では、誰が陛下を、このような状態にしたというの?」
セレナの声が、鋭くなった。
リディアは、息を呑んだ。
言えない。
セレナが犯人だと、証拠もなしに言えば、逆にリディアが嘘つき呼ばわりされる。
「リディア」
アルヴィンが、口を開いた。
リディアは、彼を見た。
アルヴィンは、冷たい目でリディアを見ていた。
「婚約者として、責任を取ってもらう」
「アルヴィン様……」
「今、ここで宣言する」
アルヴィンは、貴族たちの方を向いた。
「リディア・アーシェンフェルトとの婚約を、破棄する」
貴族たちが、どよめいた。
リディアは、その場に立ち尽くした。
婚約破棄。
公式に。
民衆の前で。
「婚約者の不始末は、俺の責任でもある。だが、これ以上、彼女を庇うことはできない」
アルヴィンは、そう言い放った。
リディアは、拳を握った。
爪が、掌に食い込む。
「リディア・アーシェンフェルト」
侍医長が、厳かに言った。
「お前を、陛下毒殺未遂の容疑で、追放する」
貴族たちが、一斉にリディアを見た。
そして、誰かが叫んだ。
「毒殺者!」
石が、飛んできた。
リディアの頬に、当たる。
痛みが、走る。
「陛下を殺そうとした!」
「許せない!」
次々と、石が飛んでくる。
リディアは、腕で顔を覆った。
石が、腕に当たる。
痛い。
だが、それ以上に、心が痛かった。
「毒殺者!」
「追放しろ!」
「死刑にしろ!」
罵声が、リディアを包む。
リディアは、涙をこらえた。
泣かない。
ここで泣いたら、認めたことになる。
リディアは、歯を食いしばった。
石が、また飛んでくる。
リディアの額に当たり、血が流れる。
リディアは、膝をついた。
貴族たちが、さらに石を投げる。
リディアは、ただ耐えた。
壇上で、セレナが微笑んでいる。
アルヴィンは、無表情だ。
侍医長は、目を逸らしている。
誰も、リディアを助けない。
誰も、信じてくれない。
リディアは、拳を握った。
血が、掌から滴り落ちる。
だが、涙は、流さなかった。
夜。
リディアは、牢屋の冷たい石床に座っていた。
暗闇の中、わずかな月明かりが、鉄格子の隙間から差し込んでいる。
リディアの手首と足首には、鎖がつけられていた。
重い。
冷たい。
リディアは、壁に背中を預けた。
額の傷が、まだ痛む。
頬も、腕も、石で打たれた跡が残っている。
だが、体の痛みよりも、心の痛みの方が大きかった。
婚約破棄。
追放。
毒殺者。
リディアは、目を閉じた。
前世と、同じだ。
誰も、信じてくれない。
真実を訴えても、誰も聞いてくれない。
リディアは、拳を握った。
鎖が、音を立てる。
朝。
牢屋の扉が、開いた。
衛兵が、二人入ってくる。
「リディア・アーシェンフェルト、立て」
リディアは、立ち上がった。
体が、重い。
一晩中、眠れなかった。
「判決が下された。辺境追放だ」
衛兵が、無表情に告げた。
「辺境……」
「北の果て、荒野の地だ。お前はそこへ護送される」
リディアは、唇を噛んだ。
辺境追放。
事実上の、死刑宣告だ。
荒野には、魔獣が徘徊している。食料も水も乏しい。そこで生き延びることは、ほぼ不可能だ。
「わかりました」
リディアは、小さく答えた。
衛兵は、鎖を外し、リディアを牢屋の外へ連れ出した。
廊下を歩く。
冷たい石壁が、両側に続いている。
「リディア」
声がして、リディアは足を止めた。
廊下の向こうから、一人の女性が歩いてくる。
セレナだ。
豪華なドレスを着て、優雅に微笑んでいる。
「セレナ様……」
衛兵が、頭を下げた。
「少し、彼女と話がしたいの。よろしいかしら?」
「はい、どうぞ」
衛兵たちは、少し離れた場所へ下がった。
セレナは、リディアの前に立った。
そして、微笑んだ。
「リディア、元気そうね」
リディアは、何も言わなかった。
セレナは、リディアの顔を見つめた。
「傷だらけね。可哀想に」
だが、その声には、同情のかけらもない。
セレナは、声を潜めた。
「あなたは、邪魔だったの」
リディアは、息を呑んだ。
「邪魔……?」
「そうよ。あなた、余計な詮索をしていたでしょう? 私の秘薬のこと、国王陛下のこと」
セレナの目が、冷たく光った。
「だから、消す必要があったの。消えてくれて、助かるわ」
リディアは、怒りで震えた。
「あなた……国王陛下を……」
「ええ、私よ」
セレナは、あっさりと認めた。
「陛下は、もう長くない。そして、次の王は……アルヴィン様が相応しいわ」
「あなた……!」
リディアは、セレナに掴みかかろうとした。
だが、鎖が体を引っ張る。
リディアは、その場で倒れそうになった。
セレナは、笑った。
「無駄よ、リディア。あなたには、もう何もできない」
セレナは、踵を返した。
「さようなら、リディア。二度と、会うことはないでしょうね」
セレナは、廊下を優雅に歩いて行った。
リディアは、その背中を睨みつけた。
拳を、握る。
だが、リディアは、何も言えなかった。
鎖が、体を縛っている。
無力だ。
セレナは、廊下の向こうへ消えた。
衛兵たちが、再びリディアの元へ来た。
「行くぞ」
リディアは、引きずられるように歩き出した。
牢屋の外。
護送馬車が、待っていた。
黒い、囚人用の馬車だ。
護送兵が、数人立っている。
「リディア・アーシェンフェルト、これより辺境へ護送する」
兵士の一人が、リディアの手首に手錠をかけた。
冷たい金属が、肌に食い込む。
リディアは、馬車の荷台に乗せられた。
荷台は、狭く、暗い。
窓もない。
リディアは、隅に座った。
馬車が、動き出した。
ガタガタと、揺れる。
リディアは、荷台の隙間から、外を見た。
王宮が、遠ざかっていく。
白い石造りの、美しい城。
だが、その中には、腐敗がある。
セレナの陰謀。
アルヴィンの裏切り。
リディアは、拳を握った。
いつか、戻ってくる。
いつか、真実を証明する。
セレナを、許さない。
アルヴィンも、許さない。
リディアは、王宮を睨みつけた。
馬車は、門をくぐり、王都を出た。
王宮が、視界から消える。
リディアは、手錠をつけられた手を見た。
鎖が、揺れている。
リディアは、小さく呟いた。
「いつか、真実を証明する」
その声は、誰にも聞こえない。
だが、リディアの心には、確かに刻まれた。
馬車は、荒野へと向かって、走り続けた。