追放された薬師ですが、冷酷侯爵に溺愛されて辺境でスローライフ始めます

第9章 小さな勝利

王宮薬房。
リディアは、薬草の在庫を確認していた。
棚の前で、羊皮紙にメモを取る。
周囲では、下級薬師たちが作業をしている。
薬草を煎じる音。
乳鉢で薬草をすり潰す音。
静かな、日常。
その時。
悲鳴が、聞こえた。
「マリ! マリ!」
リディアは、振り向いた。
薬房の奥で、誰かが倒れている。
下級薬師の少女、マリだ。
リディアは、駆け寄った。
マリは、床に倒れていた。
顔が、真っ赤だ。
汗が、額から流れている。
体が、痙攣している。
「マリ! どうしたの!」
リディアは、マリの体を支えた。
マリは、うわ言を言っている。
「熱い……苦しい……」
リディアは、マリの額に手を当てた。
高熱だ。
そして、痙攣。
リディアは、前世の知識を総動員した。
これは——急性中毒症状だ。
リディアは、周囲を見回した。
「誰か、セレナ様を呼んで!」
下級薬師の一人が、駆け出した。
リディアは、マリの脈を取った。
速い。
不規則だ。
危険だ。
このままでは、マリは死ぬ。
リディアは、マリの口を開けた。
舌を確認する。
紫色に変色している。
やはり、中毒だ。
何かの、毒物を摂取した。
その時。
セレナが、薬房に入ってきた。
「何事?」
セレナは、マリを見下ろした。
リディアは、セレナに言った。
「セレナ様、マリが急病です! 解毒薬が必要です!」
セレナは、冷たく言った。
「急病? ただの魔力不足でしょう」
「いえ、これは中毒症状です!」
セレナは、眉をひそめた。
「中毒? 何を根拠に?」
「症状が、明らかに中毒です。高熱、痙攣、舌の変色——」
セレナは、鼻で笑った。
「リディア、あなた素人でしょう? これは魔力不足よ。放っておけば、自然に治る」
「ですが——」
「放っておけ、と言っているの」
セレナは、冷酷に言い放った。
そして、踵を返し、薬房を出て行った。
リディアは、愕然とした。
放っておけ。
マリを、見殺しにしろと? 
リディアは、唇を噛みしめた。
絶対に、許さない。
リディアは、立ち上がった。
「誰か、マリをベッドに運んで!」
下級薬師たちは、戸惑っていた。
「ですが、セレナ様が——」
「私が責任を取る! 早く!」
リディアの声に、下級薬師たちは動いた。
マリを、薬房の隅のベッドに運ぶ。
リディアは、薬棚に駆け寄った。
解毒薬。
前世の知識で、中毒の解毒法を思い出す。
活性炭——毒物を吸着する。
この世界では——黒い苔だ。
リディアは、黒い苔を取り出した。
そして、乳鉢ですり潰す。
水を加え、ペースト状にする。
リディアは、それをマリの口に流し込んだ。
「マリ、飲んで」
マリは、意識が朦朧としている。
だが、リディアが口を開けさせ、無理やり飲ませた。
次に、利尿作用のある薬草。
白い花だ。
リディアは、それを煎じた。
急いで、急いで。
リディアの手が、震えている。
だが、止まらなかった。
白い花の煎じ薬ができた。
リディアは、それもマリに飲ませた。
そして、待った。
下級薬師たちが、固唾を呑んで見守っている。
時間が、過ぎる。
10分。
20分。
マリの痙攣が、止まった。
顔色が、少しずつ良くなっている。
リディアは、マリの脈を取った。
落ち着いてきている。
リディアは、安堵した。
そして——。
マリが、目を開けた。
「リディア……様……?」
「マリ! よかった!」
リディアは、マリの手を握った。
マリは、涙を浮かべた。
「私……死ぬところ、でした……」
「もう大丈夫よ」
マリは、リディアの手を強く握った。
「命を……救ってくれた……ありがとうございます……」
マリは、泣いた。
リディアも、涙が込み上げた。
「よかった……本当によかった……」
周囲の下級薬師たちが、ざわめいた。
「リディア様が、マリを救った……」
「セレナ様は、放っておけと言ったのに……」
「リディア様、すごい……」
下級薬師たちが、リディアを見る目が変わった。
尊敬。
感謝。
リディアは、彼らの視線を感じた。
一人の下級薬師が、リディアに近づいた。
「リディア様、ありがとうございます。マリは、私たちの大切な仲間です」
他の下級薬師たちも、頭を下げた。
「ありがとうございます」
リディアは、彼らを見た。
そして、微笑んだ。
「私は、当たり前のことをしただけよ」
だが、心の中で、リディアは思った。
これが、第一歩だ。
味方を、作る第一歩。
数日後。
王宮の廊下を歩いていると、リディアは囁き声を聞いた。
「リディア様が、マリを救ったそうよ」
「本当に? セレナ様が見放したのに?」
「ええ。リディア様の薬で、マリは回復したんですって」
リディアは、足を止めた。
使用人たちが、廊下の隅で話している。
彼女たちは、リディアに気づいていない。
「リディア様、すごいわね」
「ええ。実は、とても優秀な薬師なのかもしれないわ」
リディアは、静かに歩き続けた。
噂が、広がっている。
マリが、リディアの治療技術を語ったのだろう。
リディアは、微笑んだ。
これでいい。
少しずつ、リディアの評判が上がっていく。
リディアは、薬房へ向かった。
薬房に入ると、マリが迎えてくれた。
「リディア様!」
マリは、元気そうだ。
顔色も良い。
「マリ、体の調子はどう?」
「はい! おかげさまで、すっかり元気です!」
マリは、嬉しそうに微笑んだ。
「本当に、ありがとうございました。リディア様のおかげで、命を救われました」
「よかったわ」
マリは、リディアに近づいた。
そして、小声で言った。
「リディア様、実は……皆、リディア様のことを話しているんです」
「皆?」
「はい。使用人たちや、下級薬師たち。リディア様がどんなに優秀な薬師か、って」
リディアは、頷いた。
「そう」
「それに……」
マリは、さらに声を潜めた。
「貴族の方々も、興味を持ち始めているみたいです」
リディアは、眉をひそめた。
「貴族?」
「はい。私、聞いたんです。ある貴族夫人が、リディア様に診てもらいたいって」
リディアは、息を呑んだ。
貴族が、リディアに? 
その日の午後。
リディアは、ある貴族夫人の部屋に招かれた。
部屋は、豪華だ。
金色の装飾が、至る所に施されている。
貴族夫人は、ソファに座っていた。
中年の、上品な女性だ。
「リディア様、お越しいただき、ありがとうございます」
リディアは、頭を下げた。
「お招きいただき、光栄です」
夫人は、リディアに座るよう促した。
リディアは、ソファに座った。
夫人は、真剣な顔で言った。
「実は、娘のことで、ご相談したいのです」
「お嬢様が?」
「はい。娘は、幼い頃から持病を抱えています。頭痛と、めまい。どの薬師も、治せませんでした」
夫人の目が、潤んだ。
「ですが、リディア様がマリを救ったと聞いて……もしかしたら、娘も救っていただけるのではないかと」
リディアは、頷いた。
「お嬢様を、診察させていただけますか?」
「ぜひ、お願いします」
夫人は、娘を呼んだ。
若い娘が、部屋に入ってきた。
15歳くらいだろうか。
顔色が、悪い。
リディアは、娘に近づいた。
「失礼します」
リディアは、娘の脈を取った。
そして、前世の知識で診断する。
血行不良。
栄養不足。
リディアは、娘に質問した。
「食欲は、ありますか?」
「いいえ……あまり……」
「めまいは、いつ起こりますか?」
「立ち上がった時や、階段を上る時です……」
リディアは、診断を確定した。
貧血だ。
この世界では、魔力不足と診断されているのだろう。
だが、実際は鉄分不足による貧血だ。
リディアは、夫人に言った。
「お嬢様は、貧血です」
「貧血……?」
「はい。鉄分が不足しているのです。適切な食事と、補助薬で治ります」
夫人は、目を見開いた。
「本当ですか!」
リディアは、頷いた。
「はい。私が、薬を処方します」
リディアは、薬房に戻り、鉄分を多く含む薬草を調合した。
赤い実と、緑の葉。
そして、それを夫人に渡した。
「これを、毎日お嬢様に飲ませてください」
夫人は、感激した。
「ありがとうございます、リディア様!」
数週間後。
夫人から、手紙が届いた。
「娘が回復しました。頭痛もめまいも、なくなりました。本当に、ありがとうございます」
リディアは、手紙を読んで微笑んだ。
噂は、さらに広がった。
貴族たちの間で、リディアの名前が囁かれるようになった。
「リディア・アーシェンフェルトは、優秀な薬師らしい」
「セレナ様とは、違う方法で治療するそうよ」
リディアは、それを聞いて、心の中で呟いた。
小さな信頼の、積み重ね。
それが、リディアの武器だ。
ある日。
リディアは、カイル邸を訪れた。
エリスに、薬を届けるためだ。
カイルが、応接室でリディアを待っていた。
リディアは、カイルに頭を下げた。
「カイル様」
カイルは、リディアを見た。
そして、珍しく口を開いた。
「お前の評判が、上がっている」
リディアは、驚いた。
「評判……?」
「ああ。王宮で、お前が何人かの病人を救ったと聞いた」
カイルは、わずかに頷いた。
「悪くない」
リディアは、胸が温かくなった。
カイルが、褒めてくれた。
リディアは、微笑んだ。
「ありがとうございます」
カイルは、再び無表情に戻った。
「だが、油断するな。まだ、娘は完治していない」
「はい。わかっています」
リディアは、決意を新たにした。
小さな信頼の、積み重ね。
それが、やがて大きな力になる。
リディアは、自信を取り戻していた。
カイル邸。
リディアは、エリスの部屋に入った。
いつものように、薬を持ってきた。
だが、今日は違った。
エリスが、ベッドに座っていた。
横たわっているのではなく、座っている。
リディアは、驚いた。
「エリスちゃん!」
エリスは、リディアを見て微笑んだ。
「リディア先生!」
エリスの声が、明るい。
以前よりも、元気だ。
リディアは、エリスに近づいた。
「エリスちゃん、体の調子はどう?」
「うん! すごくいいの!」
エリスは、嬉しそうに言った。
「今日ね、ベッドから起きられたの!」
リディアは、胸が熱くなった。
「本当! よかった!」
エリスは、リディアの手を取った。
「リディア先生のおかげだよ!」
その時。
部屋の扉が、開いた。
カイルが、入ってきた。
カイルは、エリスを見た。
そして、立ち止まった。
目を、見開いている。
エリスは、カイルに向かって言った。
「パパ! 見て! 私、ベッドから起きられたの!」
カイルは、動かなかった。
ただ、エリスを見つめている。
エリスは、さらに言った。
「パパ、お散歩に行きたい! 庭を、一緒に歩きたいの!」
エリスの顔が、笑顔で輝いている。
カイルは、息を呑んだ。
そして、ゆっくりとエリスに近づいた。
エリスの前に、膝をついた。
カイルは、エリスの顔を見つめた。
その目には、驚愕と、喜びが混在していた。
カイルは、言葉を失っていた。
ただ、震える手で、エリスの頬に触れた。
「エリス……」
カイルの声が、震えている。
「本当に……お前……」
エリスは、カイルに抱きついた。
「パパ! 私、元気になったよ!」
カイルは、エリスを抱きしめた。
強く。
まるで、二度と離さないかのように。
カイルの肩が、震えている。
リディアは、その光景を見て、涙が込み上げた。
8年間。
8年間、エリスはベッドに臥せっていた。
8年間、カイルは娘の笑顔を見ることができなかった。
だが、今——。
エリスは、笑っている。
カイルは、娘を抱きしめている。
リディアは、静かに部屋の隅に下がった。
この瞬間は、二人だけのものだ。
しばらくして、カイルはエリスを離した。
そして、リディアの方を向いた。
カイルは、立ち上がり、リディアに近づいた。
「リディア」
カイルの声が、低い。
だが、温かい。
リディアは、カイルを見上げた。
「はい」
カイルは、リディアの目を見た。
「まだ……完治では、ないのか?」
リディアは、頷いた。
「はい。まだ完治ではありません。ですが、順調です」
カイルは、深く息を吐いた。
そして、リディアの手を取った。
リディアは、驚いた。
カイルの手が、リディアの手を包んでいる。
温かい。
カイルは、真剣な眼差しでリディアを見た。
「お前には、感謝しきれない」
リディアは、息を呑んだ。
「カイル様……」
「8年間だ」
カイルの声が、震えた。
「8年間、俺は娘の笑顔を見ることができなかった」
カイルは、エリスを見た。
「だが、お前が来てから、娘は変わった」
カイルは、再びリディアを見た。
「お前は、俺の娘を救ってくれた」
リディアは、戸惑った。
カイルの手の温かさ。
カイルの眼差しの、優しさ。
リディアは、頬が熱くなるのを感じた。
「私は……私がやるべきことを、しただけです」
リディアは、小さく答えた。
カイルは、リディアの手を強く握った。
「いや、お前は奇跡を起こした」
カイルの目が、リディアを見つめている。
「俺は、お前に一生、恩を返しきれない」
リディアは、心臓が高鳴るのを感じた。
だが、その時。
「リディア先生!」
エリスが、ベッドから呼びかけた。
リディアは、カイルから手を離し、エリスの方へ行った。
「何? エリスちゃん」
エリスは、リディアの手を取った。
そして、甘えるように言った。
「リディア先生、ずっと一緒にいてね」
リディアは、微笑んだ。
「ええ、もちろんよ」
エリスは、嬉しそうに笑った。
「約束だよ!」
「約束よ」
リディアは、エリスの頭を撫でた。
カイルは、その光景を見ていた。
無表情だが、その目には、温かさが宿っていた。
リディアは、カイルを見た。
カイルも、リディアを見た。
二人の視線が、交わった。
リディアは、胸が熱くなった。
これが、居場所。
リディアが、求めていた居場所。
リディアは、微笑んだ。
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