氷の法医学者と、秘密の共犯になりました

第4話

「昨日のことは忘れろ」

翌朝の監察医務院。

検案室へ続く廊下で、沢渡先生は開口一番そう言った。

白衣の襟元はいつも通り整っていて、髪にも乱れはない。表情も、声も、氷みたいに平坦だった。
昨日、病院の処置室で呼吸を乱していた人と同じには見えない。

生きている人の血を前にして、視線を奪われ、声を失いかけていた人。
それでも、藤堂誠司さんを助けるために必要な指示を出した人。

私はその両方を知っている。

「忘れません」

私が答えると、先生の眉がわずかに動いた。

廊下の蛍光灯が、先生の横顔を白く照らしている。

「でも、誰にも言いません」

先生は黙った。

私は続けた。

「言いふらしたいわけじゃありません。先生を困らせたいわけでもありません。昨日のことは、現場で必要だったこととして覚えています。先生が何を怖がって、何なら判断できるのか。それを知らないふりはできません」

「……利用するためにか」

静かな声だった。

責めているのではない。
事実を確認している声。

だから、余計に痛い。

「違います」

私はすぐに首を振った。

「もう、武器にはしません」

先生の目が、少しだけ細くなる。

「都合がいいな」

「はい。都合がよくても、そうします」

自分でも、ひどい返事だと思った。

でも、綺麗な言葉でごまかしたくなかった。

私は一度、先生の弱みを使った。

事件のため。
正義のため。
そう言い訳をして、踏み込んではいけない場所に踏み込んだ。

その事実は消えない。

だからこそ、次に何を選ぶかくらいは、自分で決めたい。

「先生の秘密を守ります。刑事として、現場で混乱を起こさないために。人として、先生を好奇心に晒したくないから」

先生は少しの間、私を見ていた。

氷みたいな目。

けれど、その奥に、昨日の揺らぎが残っている気がした。

「……守る、という言い方は大げさだ。……資料は?」

先生が言った。

私も顔を引き締める。

「昨夜、藤堂さんの自宅を真鍋先輩と確認しました。奥さん立ち会いです。問題の封筒は見つかりました」

先生の視線が鋭くなる。

「中身は」

「ありませんでした」

「封筒に白峰メディカルケアのロゴもありません。ただ、藤堂さんの奥さんは、白峰の関係者らしき女性から封筒を受け取ったように見えたと」

「らしき、だな」

「はい。断定はしていません」
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