【コミカライズ原作】幸せな政略結婚 〜記憶喪失となった辺境伯様には秘密がある〜
第10話:氷の紋章
城の外へ出ると、風に紛れて黒煙の臭いが鼻をついた。
私は国境の方角を見つめる。
「ニーナ様、お早く馬車の中へ」
モニカに支えられて馬車のステップに足を掛けた時、伝令の馬に乗った騎士が大きな叫び声を上げているのが聞こえた。
「フランツ様の氷の壁が、砦を死守されましたっ! ダイヤモンドヴァントが、我らに勝利を! しかしフランツ様は倒れられたまま、目を覚ましていない状況です!」
その声に、私はドレスの裾をたくし上げて騎士の元へと駆け出す。
「フランツ様は、倒れられたフランツ様は、今どこに……」
「他の者がお体を抱えて、慎重にこちらへ向かっています」
私はまた国境の方へと走り出した。
けれどすぐにドレスの裾が足に引っ掛かり転んでしまう。それでも呼吸を整えて、私は前を向いて立ち上がる。視線の先にある国境の大きな正門の向こうで、こちらへと近づく騎馬隊により舞い上がった砂塵が見えた。
城で働く者達から、一気に歓声が上がる。
次第に大量の馬が駆ける足音が、地響きのようにこちらへ近づいて来る。
私は飛び出してしまいそうなほど脈打つ心臓に手を当てて、フランツ様のお姿を見付けようと目を凝らした。馬の首元にフランツ様のお体を固定して、後ろから支えて走る騎士の姿が見えた瞬間、視界があふれる涙で滲んでいく。
「フランツ様っ! フランツさまっー! フランツさまっ」
馬軍が鳴らす足音で、その声が届くはずもないのに、私はずっとその名を叫び続けていた。
フランツ様の自室で、医師により脈にも呼吸にも異常はないとの診断を聞いて、私は安堵して床に崩れ落ちた。
モニカやハンスに笑われてしまうだろうかと振り返ると、城の者がみんなフランツ様のご無事に息を吐き、私と同じように床に座り込んでいる。
フランツ様のお人柄に、誰もが敬意を抱き、そのご無事を祈っていたのだ。
大きな安堵の後、私はふと、気づく。
気づきたくもない。
一つの事に…………。
『フランツ様の氷の壁が、砦を死守されましたっ! ダイヤモンドヴァントが、我らに勝利を!』
フランツ様は、再び魔力を取り戻したのだ。
『恐らく俺は……どこかで非道なあいつに戻るのかもしれない』
そんなフランツ様の言葉が私の心を刺す。
次に瞳を開ける時、その目はもう、凍てついた眼差しに戻っているのかもしれない。私は眠るフランツ様のお側で、それでもフランツ様の目覚めを祈った。
「お慕いしています。あなた様を、心からお慕い申し上げております」
言葉と同時に、ゆっくりと涙が頬をつたい落ちていく。
私はフランツ様の手を握ろうとその手に視線を向ける、その左手の甲に、白いハンカチが巻かれているのが見えた。
「これは……」
その白い生地には見覚えがある。
それは私が氷の紋章の刺繍をして、フランツ様に贈ったハンカチだった。
それが、フランツ様の手を持ち上げた拍子にスルリとほどけて落ちていく。
ヒラヒラと舞いながら床へと落ちたハンカチは、柄の無いただの白いハンカチとなっていた。
ただそこにしっかりと、氷の結晶の《《縫い跡》》だけを残して……。
「まさかっ」
私はハンカチから視線をフランツ様の手の甲へと戻す。
そこには、私の刺繍と同じ大きさの、碧く輝く鮮やかな氷の紋章が刻まれていた。