名前を呼ぶまで、春は来ない

第11話 触れ合う痛み

 告白から三日が経った。
 朝倉くんとの関係は、表面上は何も変わっていなかった。朝の挨拶、授業の合間の何気ない会話、放課後の部活動。全部、以前と同じ。
 でも、何かが変わった。
 目が合った時、少しだけ長く見つめ合ってしまう。
 名前を呼ばれた時、心臓が跳ねる。
 隣に座っている時、彼の存在が以前より近く感じられる。
 これが、恋なのかもしれない。
 まだ確信は持てないけれど、少なくとも以前とは違う何かが、私の中で動き始めていた。



 金曜日、放課後。
 写真部の部室で、文化祭の最終準備をしていた。展示する写真を選び、パネルに貼り付ける作業。
「桜井さん、この写真すごくいいよ」
 伊藤さんが、私の撮った波の写真を見て言った。
「境界線がずっと動いてる感じが、出てる」
「ありがとうございます」
 少しだけ、自信が持てた。
 私の写真を、誰かが褒めてくれる。
 それだけで、展示する勇気が湧いてくる。



 三島先輩が、大きな段ボール箱を持ってきた。
「はい、これにパネル入れて。明日、会場に運ぶから」
 みんなで、一枚一枚丁寧にパネルを箱に入れていく。
 私の写真も、その中に入れられた。
 十枚の境界線。
 波、光と影、ガラス越しの風景、川の両岸、橋の下、そして──朝倉くんの横顔。
 どの写真も、私の心の一部だった。



 作業を終えて、帰り支度をしていると、三島先輩が声をかけてきた。
「桜井さん、明日の搬入、来れる?」
「……はい」
「よかった。人手が多い方が助かるから」
 三島先輩は、嬉しそうに笑った。
「それと、文化祭当日も来てね。桜井さんの写真、きっとみんな見てくれるから」
 その言葉が、嬉しい反面、プレッシャーにもなった。
 本当に、みんな見てくれるだろうか。
 私の写真を、変だと思わないだろうか。



 帰り道、朝倉くんと二人で歩いた。
「明日、搬入手伝ってくれるんだ」
「うん。でも、緊張する」
「大丈夫だよ。みんな優しいから」
 彼は、いつも通り優しく笑った。
「それに、俺もいるし」
 その言葉に、少しだけ安心した。
 朝倉くんがいれば、大丈夫な気がする。



「桜井さん」
 少し歩いてから、朝倉くんが言った。
「あの日のこと、重く考えないでね」
「え?」
「告白のこと。返事とか、気にしなくていいから」
 彼は、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「ただ伝えたかっただけで、桜井さんを困らせたかったわけじゃないから」
「……困ってないよ」
 私は、小さく言った。
「むしろ、嬉しかった」
 朝倉くんが、少し驚いたような顔をした。
「本当?」
「うん。誰かに『特別』って言ってもらえるなんて、思ってなかった」



 私は、立ち止まって朝倉くんを見た。
「私、ずっと自分のこと、『いてもいなくても同じ』って思ってた」
「桜井さん──」
「でも、朝倉くんは『特別』って言ってくれた。それだけで、少しだけ自分を好きになれた気がする」
 朝倉くんは、何も言わずに私を見つめていた。
 夕焼けの光が、彼の横顔を照らしている。
「……よかった」
 彼が、小さく呟いた。
「桜井さんが、そう思ってくれて」



 その夜、母と夕食を食べながら、文化祭の話をした。
「今度の土日、文化祭なんだ」
「そう。写真部の展示、あるんでしょ?」
「うん。私も写真出す」
 母は、少し驚いたような顔をした。
「澪が? それは楽しみね」
「……来る?」
 自分でも驚くほど、自然にそう言っていた。
「いいの?」
「うん。見てほしい」
 母は、嬉しそうに笑った。
「じゃあ、日曜日に行くわ」



 次の日、土曜日。
 午前中から学校へ行き、文化祭の会場設営を手伝った。
 写真部の展示会場は、三階の多目的室。広い部屋の壁に、パネルを並べて展示する。
 三島先輩の指示のもと、みんなで作業を進めた。
「桜井さんの写真は、この壁ね」
 入り口から入って、右側の静かな場所。
 私は、自分の撮った写真を一枚一枚、壁に貼り付けていった。
 波の境界線。光と影。ガラス越しの風景。
 どの写真も、私の心の一部だった。



 最後に、朝倉くんの横顔の写真を貼った。
 川を見つめる彼。
 過去と未来の境界線に立つ人。
 この写真が、私の一番のお気に入りだった。
「これ、いい写真だね」
 背後から声がして、振り向くと、三年生の先輩が立っていた。
「この人、朝倉くんでしょ? すごくいい表情してる」
「……ありがとうございます」
「境界線ってテーマにぴったりだよ。過去に縛られてるけど、前を向こうとしてる感じが出てる」
 先輩の言葉が、胸に響いた。
 私が撮りたかったのは、まさにそれだった。



 午後、作業が終わって、みんなで会場を見回った。
 壁一面に並んだ写真。
 それぞれの部員が撮った、それぞれの境界線。
 三島先輩の線路やフェンス。水野くんの夕暮れと夜明け。伊藤さんの森と空。
 そして、朝倉くんの人の表情。
 笑顔と涙の間。怒りと諦めの間。
 どの写真にも、撮った人の『視点』があった。
「いい展示になったね」
 三島先輩が、満足そうに言った。
「みんな、お疲れ様。明日からの本番、楽しみだね」



 帰り道、朝倉くんと二人で歩いた。
「疲れた?」
「ちょっと。でも、楽しかった」
「よかった」
 彼は、少し嬉しそうに笑った。
「桜井さんの写真、すごくよく並んでたよ。きっと、たくさんの人が見てくれる」
「……緊張する」
「大丈夫。俺がついてるから」
 その言葉に、少しだけ勇気をもらった。



 その夜、ベッドに横になりながら考えた。
 明日から、文化祭が始まる。
 私の写真を、たくさんの人が見る。
 クラスメイトも、先生も、他の学校の生徒も。
 そして、母も。
 みんなが、私の心の一部を見ることになる。
 怖い。
 でも、同時に──少しだけ、楽しみでもあった。



 月曜日、文化祭初日。
 朝から、学校は賑やかだった。教室や廊下に装飾が施され、模擬店の準備をする生徒たちで溢れていた。
 私は、午前中からクラスの出し物の手伝いをした。クラスでは喫茶店をやることになっていて、私は裏方の仕事を担当していた。
 接客は苦手だから、調理場で飲み物を作る係。
 それなら、人と話さなくてもいい。



 昼休み、写真部の展示会場へ行った。
 すでに何人かの来場者がいた。
 私は、会場の隅に立って、人々が写真を見ている様子を観察した。
 ある女子生徒が、私の撮った波の写真の前で立ち止まった。
「これ、すごい。波の動き、よく捉えてる」
 友達に話しかけている。
 その言葉に、少しだけ嬉しくなった。



 別の男子生徒が、朝倉くんの横顔の写真を見ていた。
「これ、誰が撮ったんだろう。めっちゃいい」
「桜井って子らしいよ」
 そのやり取りを聞いて、心臓が跳ねた。
 褒めてくれている。
 私の写真を。



 午後、クラスの仕事が一段落して、また会場へ戻った。
 今度は、母が来ていた。
「澪、すごいわね」
 母は、私の写真を一枚一枚見ながら言った。
「こんなに素敵な写真、撮れるなんて」
「……ありがとう」
「特にこれ」
 母が指差したのは、朝倉くんの横顔の写真だった。
「この人、大切な人なのね」
 母の言葉に、少し驚いた。
「なんでわかるの?」
「写真に、愛情が込められてる。大切じゃない人は、こんなふうに撮れないもの」



 母の言葉が、胸に響いた。
 大切な人。
 朝倉くんは、私にとって大切な人なのだろうか。
 まだはっきりとはわからない。
 でも、少なくとも『特別な人』ではある。
「その人、紹介してくれる?」
 母が、悪戯っぽく笑った。
「いつか、ね」
 私は、少し照れくさそうに答えた。



 夕方、文化祭初日が終わった。
 片付けを手伝っていると、朝倉くんが会場にやってきた。
「お疲れ様。今日、どうだった?」
「……たくさんの人が見てくれた」
「よかった」
 彼は、嬉しそうに笑った。
「桜井さんの写真、評判いいよ。俺も、何人かから『あの写真、いいね』って言われた」
「本当?」
「本当」



 その時、会場に数人のクラスメイトが入ってきた。
 私のクラスの女子たちだった。
 彼女たちは、私を見て、少し驚いたような顔をした。
「あ、桜井さん」
 一人が、声をかけてきた。
「写真、見せてもらったよ。すごくよかった」
「……ありがとう」
「特に、この写真」
 彼女が指差したのは、ガラス越しの風景の写真だった。
「なんか、寂しいけど綺麗で。桜井さんらしいなって思った」



 桜井さんらしい。
 その言葉が、意外だった。
 彼女たちは、私のことを噂していた人たちだ。
 でも、今は普通に話しかけてくれている。
「あとさ、この人の写真」
 もう一人が、朝倉くんの横顔の写真を見て言った。
「これ、朝倉くんだよね? めっちゃいい表情してる」
「うん」
「桜井さん、朝倉くんのこと好きなの?」
 その質問に、私は固まった。



「え、違うの?」
「だって、こんないい写真撮るってことは、好きなんだと思って」
 彼女たちは、悪意なく言っている。
 ただの好奇心だ。
 でも、答えられなかった。
「……わかんない」
 正直に言った。
「好きなのか、まだわかんない」
 彼女たちは、少し驚いたような顔をした。
 そして、一人が笑った。
「桜井さん、正直だね。でも、いいと思うよ。朝倉くん、優しいし」



 彼女たちが去った後、私は一人で会場に残った。
 朝倉くんの横顔の写真を見つめる。
 川を見つめる彼。
 過去と未来の境界線に立つ彼。
 私は、彼のことが好きなのだろうか。
 答えは、まだわからない。
 でも、一つだけ確かなことがある。
 彼は、私にとって特別だ。
 とても、とても、特別な存在だ。



 会場を出ると、廊下に朝倉くんが立っていた。
「待ってたの?」
「うん。一緒に帰ろうと思って」
 彼は、いつも通り優しく笑った。
「今日、お疲れ様」
「……ありがとう」
 二人で、夕暮れの校舎を歩いた。
 オレンジ色の光が、廊下を照らしている。



「朝倉くん」
「ん?」
「私、まだわかんない」
「何が?」
「朝倉くんへの気持ち。好きなのか、どうなのか」
 朝倉くんは、立ち止まって私を見た。
「……いいよ。無理に答え出さなくても」
「でも──」
「桜井さんのペースでいい。俺は、待ってるから」



 その言葉が、優しくて、少しだけ切なかった。
 待っている。
 朝倉くんは、私を待っていてくれる。
 答えが出るまで、ずっと。
 それが、嬉しくて、同時に申し訳なくて。
 でも、今の私には、これが精一杯だった。



 校門で別れる時、朝倉くんが言った。
「明日も、来てね」
「うん」
「桜井さんの写真、もっとたくさんの人に見てほしいから」
 その言葉に、少しだけ勇気をもらった。
 明日も、会場に行こう。
 自分の写真を、もっとたくさんの人に見てもらおう。
 それが、今の私にできる、小さな一歩だから。

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