名前を呼ぶまで、春は来ない

第12話 文化祭の準備

 文化祭二日目、日曜日。
 朝から、学校は昨日以上に賑わっていた。一般公開日だから、他校の生徒や保護者、地域の人たちもたくさん来ている。
 私は、午前中クラスの喫茶店を手伝った。昨日と同じく、裏方の飲み物係。
 調理場は狭くて暑かったけれど、接客をしなくていい分、気が楽だった。
「桜井さん、アイスコーヒー三つお願い!」
 ホールから声がかかる。
「はい」
 手際よく作って、トレイに乗せる。



 昼休みになって、ようやく休憩が取れた。
 私は、すぐに写真部の展示会場へ向かった。
 会場は、昨日以上に人でいっぱいだった。写真を見る人、写真について話し合う人、カメラで展示を撮影している人。
 その中に、朝倉くんがいた。
 来場者に、写真について説明している。
「この写真は、境界線がテーマなんです。人の表情の境界線──笑顔と涙の間、みたいな」
 来場者は、興味深そうに頷いていた。



 朝倉くんが、私に気づいて手を振った。
 私も、小さく手を振り返す。
 会場を見回すと、私の写真の前にも何人かの人が立ち止まっていた。
 波の境界線を見つめる女性。ガラス越しの風景に見入る男性。
 そして、朝倉くんの横顔の写真の前には、若いカップルが立っていた。
「これ、すごくない? 表情がいい」
「うん。撮った人、上手だね」
 その会話を聞いて、胸が熱くなった。
 私の写真を、褒めてくれている。



「桜井さん」
 三島先輩が、私の肩を叩いた。
「すごい人気だよ、今年の展示。特に桜井さんの写真、評判いい」
「……本当ですか?」
「本当。さっき、写真部に入りたいって一年生が三人も来たんだよ」
 三島先輩は、嬉しそうに笑った。
「桜井さんが入ってくれて、本当によかった」
 その言葉が、嬉しかった。
 私が、誰かの役に立っている。
 写真部に、貢献できている。



 午後、再びクラスの仕事に戻った。
 喫茶店は相変わらず混んでいて、休む暇もなかった。
 私は、黙々と飲み物を作り続けた。
 アイスコーヒー、オレンジジュース、アイスティー。
 注文が次々と来る。
「桜井さん、ちょっといい?」
 調理場の奥から、クラスメイトの一人が声をかけてきた。
「何?」
「ちょっと手伝ってほしいことがあって」



 彼女について行くと、準備室に何人かのクラスメイトが集まっていた。
 雰囲気が、少しだけ重かった。
「どうしたの?」
 私が聞くと、一人の女子が口を開いた。
「あのさ、桜井さんに聞きたいことがあるんだけど」
「……何?」
「レジのお金、合わないの」
 レジのお金。
 私は、レジは触っていない。ずっと調理場にいたから。
「私、レジ触ってないけど」
「でも、桜井さん、さっきレジの近く通ったよね」



 心臓が、冷たくなった。
 この雰囲気。この空気。
 私を疑っている。
「通っただけで、触ってない」
「でも、その時誰もいなかったし──」
「だから、触ってないって」
 声が、震えた。
 また、あの感覚だ。
 疑われる感覚。孤立する感覚。



「まあまあ、落ち着いて」
 別の子が、仲裁に入った。
「桜井さんじゃないかもしれないし。もう一回、みんなで探してみようよ」
「でも──」
「いいから。桜井さん、戻っていいよ」
 私は、何も言えずに準備室を出た。
 廊下を歩きながら、手が震えていた。
 疑われた。
 お金を盗んだと。



 調理場に戻ると、別のクラスメイトが心配そうな顔で聞いてきた。
「桜井さん、大丈夫? 顔、真っ青だよ」
「……大丈夫」
「何かあった?」
「何も」
 私は、また黙々と飲み物を作り始めた。
 でも、手は震え続けていた。



 三十分後、レジのお金は見つかった。
 レジの下に落ちていたらしい。
 誰かが、謝りに来た。
「桜井さん、ごめん。疑って」
「……いいよ」
 私は、短く答えた。
 でも、心の中では許せなかった。
 なんで、私が疑われたのか。
 なんで、私だったのか。



 夕方、文化祭が終わった。
 片付けを手伝いながら、私はずっと考えていた。
 あれは、本当に偶然だったのか。
 それとも、誰かが仕組んだのか。
 私を孤立させるために。
 考えすぎかもしれない。
 でも、中学の時と同じ空気を感じた。
 私を排除しようとする、見えない圧力。



 片付けが終わって、教室を出ようとした時、クラスメイトの一人が声をかけてきた。
「桜井さん、さっきはごめんね」
「……いいよ」
「でもさ、桜井さんって、昔も何かあったんでしょ?」
 その言葉に、足が止まった。
「中学の時、友達見捨てたって聞いたけど」
「それ、今関係ないよね」
 私は、振り返らずに言った。
「でも、そういうことする人って、また何かするんじゃないかって──」
「もういい」



 私は、早足で教室を出た。
 廊下を歩きながら、涙が溢れそうになった。
 やっぱり。
 また、あの噂が広がっている。
 私が、友達を見捨てた人間だって。
 信用できない人間だって。



 写真部の展示会場に行くと、朝倉くんが片付けをしていた。
「桜井さん、お疲れ様」
 彼が笑顔で振り向いた。
 でも、私の顔を見て、表情が変わった。
「……どうしたの?」
「別に」
「嘘だ。何かあった」
 朝倉くんが、近づいてきた。



 私は、今日あったことを話した。
 レジのお金がなくなったこと。疑われたこと。そして、中学の噂を持ち出されたこと。
 朝倉くんは、黙って聞いていた。
「……それは、辛かったね」
「うん」
「でも、お金は見つかったんでしょ?」
「見つかった。でも──」
 私は、言葉を選んだ。
「なんで、私が疑われたのかなって」



 朝倉くんは、少し考えてから言った。
「もしかしたら、誰かが意図的に桜井さんを疑わせようとしたのかもしれない」
「……え?」
「レジの近くに、桜井さんが通るタイミングで、わざとお金を隠した。そうすれば、桜井さんが疑われる」
 その可能性を、私も考えていた。
 でも、口にするのが怖かった。
「でも、なんで?」
「わからない。でも、桜井さんを孤立させたい人がいるのかもしれない」



 孤立させたい。
 その言葉が、胸に刺さった。
 また、あの時と同じだ。
 美咲が孤立した時と。
 今度は、私が標的になっている。
「朝倉くん、私──」
「大丈夫」
 彼が、私の肩に手を置いた。
「俺がついてるから」



 その言葉に、少しだけ救われた。
 でも、同時に思った。
 朝倉くんまで、巻き込みたくない。
 私と一緒にいることで、彼も孤立するかもしれない。
「朝倉くん、私と一緒にいない方がいいかも」
「……何言ってるの?」
「だって、私と一緒にいたら、朝倉くんまで変な目で見られるかもしれない」
「そんなの、気にしない」
 朝倉くんは、真っ直ぐ私を見た。
「桜井さんが一人になることの方が、俺は嫌だ」



 その夜、家に帰ってから、一人で考えた。
 ベッドに横になって、天井を見上げる。
 文化祭は、楽しかった。
 たくさんの人が、私の写真を褒めてくれた。
 写真部という居場所があった。
 朝倉くんという、特別な人がいた。
 でも──。
 クラスでは、また孤立しようとしている。
 中学の時と、同じように。



 スマホに、朝倉くんからメッセージが来た。
 『今日はお疲れ様。辛いことあったけど、桜井さんの写真は最高だったよ』
 その言葉に、少しだけ救われた。
 私は、返信した。
 『ありがとう。朝倉くんがいてくれて、よかった』
 送信してから、もう一通送った。
 『でも、心配かけてごめん』
 すぐに返事が来た。
 『心配なんかじゃないよ。桜井さんのそばにいたいだけ』



 そばにいたい。
 その言葉が、嬉しくて、でも怖かった。
 私のそばにいることで、朝倉くんが傷つくかもしれない。
 でも、一人になるのは、もっと怖かった。



 翌日、月曜日。
 文化祭の余韻が残る学校。
 廊下には、まだ装飾が残っていて、教室では文化祭の話題で盛り上がっている。
 でも、私の席の周りだけは、静かだった。
 誰も話しかけてこない。
 目が合っても、すぐに逸らされる。
 また、あの空気が戻ってきた。



 昼休み、屋上に逃げた。
 フェンスに寄りかかって、空を見上げる。
 六月の空は、梅雨特有の重たい雲に覆われていた。
「桜井さん」
 また、朝倉くんが探しに来てくれた。
「……なんで、いつも探しに来るの?」
「心配だから」
「でも、私と一緒にいたら──」
「何度も言うけど、気にしない」



 朝倉くんは、私の隣に来た。
「桜井さん、逃げないで」
「……え?」
「クラスから、逃げないで。写真部から、逃げないで」
 彼は、真剣な顔で言った。
「せっかく居場所ができたのに、また一人になったら、もったいないよ」
「でも──」
「俺が、守るから」
 その言葉が、重かった。
 守る、なんて。
 私のために、そこまでしてくれるなんて。



「朝倉くん、ありがとう」
 私は、小さく言った。
「でも、私、まだ怖い」
「わかってる。でも、一緒に乗り越えよう」
 一緒に。
 その言葉が、少しだけ勇気をくれた。
 一人じゃない。
 朝倉くんがいる。
 写真部のみんながいる。
 それだけで、少しだけ前を向ける気がした。




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