名前を呼ぶまで、春は来ない

第14話 孤立

 月曜日、私は学校へ行った。
 三日ぶりの登校。朝倉くんの言葉を胸に、もう一度だけ頑張ろうと思った。
 下駄箱で靴を履き替える時、また紙が入っていないか確認した。今日は、何もなかった。少しだけ、ほっとした。
 教室へ向かう廊下を歩きながら、深呼吸する。
 大丈夫。
 朝倉くんがいる。写真部がある。
 私には、居場所がある。



 教室のドアを開けた瞬間、空気が変わった。
 会話が止まった。
 何人もの視線が、私に向いた。
 黒板を見ると、そこには大きな文字が書かれていた。
 『裏切り者は出て行け』



 心臓が、止まった。
 手が震えた。
 教室中の視線が、私に突き刺さる。
 誰かが、小さく笑った。
 誰かが、ヒソヒソと囁いた。
「やっと来たんだ」
「三日も休んで、図太いね」
「まあ、友達裏切るくらいだし」



 足が動かなかった。
 教室に入ることも、逃げることもできなかった。
 ただ、立ち尽くしていた。
「桜井さん」
 朝倉くんの声がした。
 彼が、席から立ち上がって黒板の方へ歩いていく。
 そして、黒板消しで文字を消し始めた。
「朝倉、何してんの?」
 誰かが、声をかけた。
「消してるんだよ。こんなの、最低だから」



 朝倉くんは、全部の文字を消した。
 そして、私の方を見た。
「桜井さん、座って」
 彼の言葉に、ようやく足が動いた。
 席に座ると、周りの視線がまだ私に向いていた。
 朝倉くんが、隣に座った。
「大丈夫?」
 私は、頷くことしかできなかった。



 一時間目の授業が始まった。
 でも、全く集中できなかった。
 さっきの黒板の文字が、頭から離れない。
 『裏切り者は出て行け』
 誰が書いたのか。
 クラスの誰が、私をそこまで憎んでいるのか。



 授業中、後ろから消しゴムが飛んできた。
 私の背中に当たって、床に落ちた。
 振り返ると、後ろの席の女子が笑っていた。
 わざと投げたのだ。
 先生は気づいていない。
 私は、何も言えずに前を向いた。



 二時間目、ノートを開くと、中に紙が挟まっていた。
 また、メッセージ。
 『いい加減、気づいて。あんたの居場所、ここにないから』
 手が震えた。
 紙を握りつぶして、ポケットにしまう。
 朝倉くんが、心配そうにこちらを見ていた。
 でも、私は何も言えなかった。



 昼休み、私は購買へ向かった。
 一人で食べよう、そう思った。
 でも、購買の前で数人のクラスメイトに囲まれた。
「桜井さん、ちょっといい?」
 一人の女子が、声をかけてきた。
「……何?」
「あんたさ、いい加減にしてくれない?」
 彼女の声は、冷たかった。



「中学の時、友達見捨てたくせに、また友達作ろうとしてるの、見てて不快なんだけど」
「私──」
「特に朝倉くんに近づくの、やめてくれる? 朝倉くん、優しいから断れないだけで、本当は迷惑してるんだよ」
 その言葉が、胸に突き刺さった。
「朝倉くんは──」
「朝倉くんが何? あんたのこと好きだとでも思ってるの?」
 周りの女子たちが、笑った。



「あのね、朝倉くんは誰にでも優しいの。あんただけじゃない」
「だから、勘違いしないで」
「それに、写真部にも迷惑かけないでよね。あんたがいると、雰囲気悪くなるから」
 一人一人の言葉が、私を切り刻んでいった。
 言い返すことができなかった。
 ただ、俯いて耐えることしかできなかった。



「ねえ、何か言ったら?」
 一人が、私の肩を押した。
「……ごめんなさい」
 小さく、そう言った。
「ごめんなさいじゃなくて、どうするの?」
「……わかんない」
「わかんないって、困るんだけど」
 また、肩を押された。
 よろけて、壁にぶつかった。



「やめてください」
 背後から声がした。
 振り向くと、朝倉くんが立っていた。
「朝倉くん──」
「桜井さんに、何してるんですか」
 彼の声は、いつもの穏やかさとは違っていた。
「別に。ただ話してただけ」
「話してるようには見えませんでした」



 朝倉くんが、私の前に立った。
「桜井さん、行こう」
 彼が手を差し伸べてくれた。
 私は、その手を取った。
「朝倉くん、騙されないでね」
 後ろから、声がした。
「桜井って、友達裏切るような子だよ。また同じことされるかもよ」
 朝倉くんは、振り返って言った。
「桜井さんがどんな人か、俺が一番よく知ってる。あなたたちに言われる筋合いはない」



 その言葉に、涙が溢れそうになった。
 朝倉くんは、私の手を引いて、その場を離れた。
 屋上へ向かう階段を上りながら、私は泣きそうになるのを必死で堪えた。
 屋上のドアを開けると、風が吹いてきた。
 朝倉くんが、私の手を離した。



「大丈夫?」
 彼が、心配そうに聞いてきた。
 私は、もう堪えきれなかった。
 涙が、溢れてきた。
「ごめん、ごめんなさい」
「桜井さん──」
「朝倉くんまで、巻き込んじゃって」
「巻き込まれてないよ」
「でも、私のせいで──」
「桜井さん」



 朝倉くんが、私の肩に手を置いた。
「桜井さんのせいじゃない。悪いのは、あいつらだ」
 彼の声は、優しかった。
「桜井さんは、何も悪くない」
「でも──」
「過去のこと、引きずる必要ない。今の桜井さんは、ちゃんと前を向いてる」
 でも、本当にそうだろうか。
 私は、前を向いているのか。
 また逃げようとしているだけじゃないのか。



「朝倉くん」
 私は、涙を拭いて彼を見た。
「私、もう無理かもしれない」
「……え?」
「学校に来るの、無理かもしれない。写真部も──」
「待って」
 朝倉くんが、私の言葉を遮った。
「写真部は、関係ないでしょ」
「でも、迷惑かけてるって言われた」
「そんなの、あいつらの勝手な言い分だ」



 朝倉くんは、真剣な顔で言った。
「写真部のみんなは、桜井さんのこと待ってる。三島先輩も、水野くんも、伊藤さんも」
「でも──」
「それに、俺も待ってる」
 彼の目が、真っ直ぐ私を見つめていた。
「桜井さんがいないと、写真部は完成しない」



 その言葉が、嬉しかった。
 でも、同時に重かった。
 私には、その期待に応える自信がなかった。
「朝倉くん、ありがとう」
 私は、小さく言った。
「でも、少し考えさせて」
「……わかった」
 朝倉くんは、少し寂しそうな顔をした。
「でも、逃げないでね」



 その日、私は午後の授業を全部休んだ。
 保健室で横になって、天井を見つめていた。
 養護教諭が「大丈夫?」と何度も聞いてきたけれど、「大丈夫です」としか答えられなかった。
 本当は、全然大丈夫じゃなかった。
 心が、ボロボロだった。



 放課後、保健室を出て帰ろうとすると、廊下で三島先輩に会った。
「桜井さん! 体調悪いって聞いたけど、大丈夫?」
「……はい」
「今日、部活来れる?」
 私は、少し迷った。
「……すみません。今日は帰ります」
「そっか。無理しないでね」
 三島先輩は、心配そうな顔をした。
「でも、元気になったら来てね。みんな、待ってるから」



 家に帰ると、母がリビングにいた。
「おかえり。今日、早いわね」
「……うん」
「何かあった?」
 母の優しい声に、また涙が出そうになった。
「お母さん、私──」
 そこまで言って、声が詰まった。
 母が、抱きしめてくれた。
「大丈夫。ゆっくり話して」



 私は、全部話した。
 黒板の落書き。囲まれたこと。言われた言葉。
 母は、黙って聞いていた。
「それは、辛かったわね」
 母が、私の頭を撫でた。
「澪は、どうしたい?」
「……わからない」
「学校、休んでもいいのよ」
「でも──」
「でも?」
「朝倉くんが、待ってるって言ってくれた」



 母は、少し考えてから言った。
「その朝倉くんって子、大切な人なのね」
「……うん」
「なら、その人のために、もう少し頑張ってみる?」
 母の言葉が、胸に響いた。
 朝倉くんのために。
 でも、私にそんな資格があるのか。



 その夜、ベッドに横になりながら考えた。
 天井を見上げて、今日一日を振り返る。
 黒板の文字。飛んできた消しゴム。囲まれて言われた言葉。
 どれも、痛かった。
 でも、一番痛かったのは──。
 朝倉くんを巻き込んでしまったこと。
 彼まで、私のせいで傷つくかもしれない。



 スマホに、朝倉くんからメッセージが来た。
 『今日はお疲れ様。辛いことあったけど、桜井さんは頑張ったよ』
 その言葉に、少しだけ救われた。
 私は、返信した。
 『ありがとう。でも、朝倉くんまで巻き込んでごめん』
 すぐに返事が来た。
 『巻き込まれてない。俺が勝手にそばにいたいだけ』



 そばにいたい。
 その言葉が、嬉しくて、でも怖かった。
 私のそばにいることで、朝倉くんが傷つく。
 それなら、私が離れた方がいいのかもしれない。
 もう一通、メッセージを送った。
 『朝倉くん、私と距離を置いた方がいいかも』
 しばらくして、返事が来た。
 『嫌だ』
 その一言だけ。



 私は、スマホを握りしめた。
 朝倉くんは、嫌だと言ってくれた。
 距離を置くのは、嫌だと。
 それなら、私も──。
 もう少しだけ、頑張ってみよう。
 朝倉くんのために。
 写真部のみんなのために。
 そして、自分のために。

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