名前を呼ぶまで、春は来ない

第15話 距離を置く決意

 火曜日の朝、私は学校へ行った。
 昨日の出来事があっても、朝倉くんの言葉があったから。
 でも、教室に入った瞬間、また空気が変わった。
 今日は黒板に何も書かれていなかった。でも、視線は相変わらず冷たかった。
 席に座ると、朝倉くんが小さく「おはよう」と言ってくれた。
「おはよう」
 私も、小さく返した。



 一時間目の授業中、また後ろから消しゴムが飛んできた。
 今度は頭に当たった。
 振り返ると、誰も見ていない。
 でも、小さな笑い声が聞こえた。
 私は、何も言わずに前を向いた。
 朝倉くんが、心配そうにこちらを見ていた。
 でも、私は首を振って「大丈夫」と伝えた。



 二時間目が終わって、休み時間。
 トイレに行こうと席を立つと、廊下で数人の女子に囲まれた。
 また、昨日と同じメンバーだった。
「ねえ、桜井さん」
 一人が、声をかけてきた。
「昨日、朝倉くんに助けてもらったんだって?」
「……うん」
「いい加減にしてよ。朝倉くんに迷惑かけないで」



「私──」
「あんたのせいで、朝倉くんまで変な目で見られてるんだよ」
 その言葉に、心臓が痛んだ。
 やっぱり。
 朝倉くんが、私のせいで何か言われている。
「だから、もう朝倉くんに近づかないで」
「写真部にも来ないで」
「あんたの居場所、ここにないから」



 一人一人の言葉が、私を追い詰めていく。
 言い返したかった。
 でも、声が出なかった。
 喉が詰まって、何も言えなかった。
「何か言ったら?」
 一人が、私の肩を突いた。
「……ごめんなさい」
 また、その言葉しか出てこなかった。



「ごめんなさいじゃなくて」
「ちゃんと、どうするか答えて」
 私は、俯いたまま答えた。
「……距離を置きます」
「距離を置く? 誰から?」
「朝倉くんと、写真部から」
 その言葉を口にした瞬間、胸が張り裂けそうになった。
 でも、これしかなかった。



「本当?」
「……本当です」
「じゃあ、今日から実行してね」
「はい」
 彼女たちは、満足そうに笑って去っていった。
 私は、その場に立ち尽くしていた。
 廊下の窓から外を見ると、曇り空だった。
 雨が、降りそうだった。



 昼休み、私は一人で屋上へ行った。
 フェンスに寄りかかって、空を見上げる。
 灰色の雲が、重く垂れ込めている。
 カメラを取り出して、ファインダーを覗いた。
 曇り空と、遠くのビル。
 境界線が、ぼやけている。
 シャッターを切った。



「桜井さん」
 朝倉くんの声がした。
 また、探しに来てくれた。
 でも、今日は──。
「朝倉くん、来ないで」
 私は、背中を向けたまま言った。
「……どうしたの?」
「私、決めたの」
「何を?」
「朝倉くんと、距離を置く」



 沈黙が流れた。
 風が、髪を揺らした。
「なんで?」
 朝倉くんの声は、静かだった。
「朝倉くんのためだよ」
「俺のため?」
「うん。私と一緒にいたら、朝倉くんまで変な目で見られる」
「そんなの、気にしないって言ったじゃん」
「でも、私が気にするの」



 私は、振り返って朝倉くんを見た。
 彼の目は、悲しそうだった。
「朝倉くんを、これ以上巻き込みたくない」
「巻き込んでないって──」
「写真部も、辞める」
 その言葉を口にした瞬間、涙が溢れそうになった。
 でも、堪えた。
「三島先輩たちにも、迷惑かけたくないから」



 朝倉くんは、私の前に来た。
「桜井さん、それは逃げだよ」
「逃げじゃない。決断だよ」
「同じことだ」
 彼の声が、少しだけ強くなった。
「せっかく居場所ができたのに、なんで自分から捨てるの?」
「捨ててるんじゃない。守ってるの」
「何を?」
「朝倉くんと、みんなを」



 朝倉くんは、首を振った。
「俺は、守ってほしくない」
「でも──」
「桜井さんと一緒にいたいだけなんだ。それが、俺の願いなのに」
 彼の目に、涙が浮かんでいた。
「なんで、わかってくれないの?」



 私も、涙が溢れてきた。
「わかってるよ。でも、できないの」
「なんで?」
「怖いから」
 私は、本当のことを言った。
「また、誰かを傷つけるのが怖いの。美咲の時みたいに」



 朝倉くんは、私の肩に手を置いた。
「桜井さん、もう一度言うよ」
 彼の声は、優しかった。
「過去は変えられない。でも、未来は変えられる」
「……」
「今度は、逃げないでほしい。ちゃんと向き合ってほしい」
 でも、私には無理だった。
 もう、誰かと向き合う勇気がなかった。



「ごめん、朝倉くん」
 私は、彼の手を払った。
「私、もう決めたから」
「桜井さん──」
「ありがとう。今まで、優しくしてくれて」
 そう言って、私は屋上を出た。
 朝倉くんの声が、後ろから聞こえた。
「桜井さん!」
 でも、振り返らなかった。



 放課後、私は写真部の部室へ行った。
 三島先輩に、辞めることを伝えるために。
 部室のドアをノックすると、三島先輩が出てきた。
「あ、桜井さん! 久しぶり──」
 そこまで言って、三島先輩は私の顔を見て表情を変えた。
「……どうしたの? 泣いてる?」
「泣いてないです」



 部室に入ると、水野くんと伊藤さんもいた。
 みんな、心配そうな顔でこちらを見ていた。
「あの、三島先輩」
 私は、深呼吸してから言った。
「私、写真部辞めます」
 部室が、静まり返った。
「……え?」
 三島先輩が、驚いた顔をした。
「なんで?」



「迷惑かけたくないから」
「迷惑なんて、かけてないよ」
「でも──」
「桜井さん、何かあったの?」
 三島先輩が、優しく聞いてきた。
 私は、少し迷ってから話した。
 クラスで言われたこと。朝倉くんを巻き込んでしまったこと。



「それは、辛かったね」
 三島先輩が、私の肩に手を置いた。
「でも、それは桜井さんのせいじゃない」
「でも、私がいることで──」
「桜井さんがいることで、写真部は良くなってるよ」
 水野くんが、言った。
「桜井さんの写真、すごくいいもん」
 伊藤さんも、頷いた。



「だから、辞めないで」
 三島先輩が、真剣な顔で言った。
「桜井さんは、写真部に必要な人なんだから」
 その言葉が、嬉しかった。
 でも、気持ちは変わらなかった。
「……ごめんなさい」
 私は、頭を下げた。
「決めたことなので」



 三島先輩は、少し悲しそうな顔をした。
「そっか。桜井さんが決めたなら、無理に引き止めないよ」
「ありがとうございます」
「でも」
 三島先輩が、私を見た。
「いつでも戻ってきていいからね。ここは、桜井さんの居場所だから」
 その言葉に、涙が溢れてきた。



 部室を出て、廊下を歩く。
 涙が止まらなかった。
 写真部を辞めた。
 朝倉くんと距離を置くことにした。
 私の居場所は、もうどこにもない。



 下駄箱で靴を履き替えていると、朝倉くんが来た。
「桜井さん」
「……」
「部室行ったんだ」
「うん」
「辞めるって、言ったの?」
「……言った」
 朝倉くんは、悲しそうな顔をした。



「桜井さん、本当にそれでいいの?」
「いいの」
「後悔しない?」
「……わかんない」
 正直に答えた。
「でも、これしかないから」
 朝倉くんは、しばらく黙っていた。
 そして、静かに言った。
「わかった。桜井さんが決めたなら、俺は何も言わない」



 その言葉に、少し驚いた。
 引き止めてくれると思っていたから。
「でも、一つだけ」
 朝倉くんが、私を見た。
「写真は、続けてほしい」
「……え?」
「写真部は辞めてもいい。俺と距離を置いてもいい。でも、写真だけは続けてほしい」
 彼の目は、真剣だった。
「それが、桜井さんの『声』だから」



 声。
 写真が、私の声。
 その言葉が、胸に響いた。
「……考える」
 それだけ言って、私は学校を出た。
 朝倉くんは、何も言わずに見送ってくれた。



 帰り道、一人で歩きながら涙が止まらなかった。
 写真部を辞めた。
 朝倉くんと距離を置いた。
 私は、また一人になった。
 中学の時みたいに。
 でも、これでよかったのか。
 本当に、これが正しい選択だったのか。



 家に帰ると、母がリビングにいた。
「おかえり──澪、どうしたの?」
 母が、駆け寄ってきた。
「泣いてるじゃない」
「お母さん──」
 私は、母に抱きついた。
 そして、声を上げて泣いた。
 今まで堪えていたものが、全部溢れてきた。



 母は、何も聞かずにずっと抱きしめていてくれた。
 背中を撫でながら、「大丈夫、大丈夫」と繰り返してくれた。
 泣き止むまで、母はずっとそばにいてくれた。



 夜、部屋で一人になって、カメラを見つめた。
 三島先輩から借りたカメラ。
 これも、返さなければいけない。
 でも、朝倉くんの言葉を思い出す。
 ──写真だけは、続けてほしい。
 続けられるだろうか。
 一人で。
 誰とも関わらずに。



 窓の外を見ると、雨が降り始めていた。
 梅雨の長雨。
 カメラを構えて、窓越しに雨を撮った。
 ガラスに雨粒が伝っている。
 その向こうに、ぼやけた街の灯りが見える。
 シャッターを切った。



 液晶画面を見る。
 雨に滲む光。
 境界線が、完全に消えている。
 内と外の区別がつかない世界。
 これが、今の私の心なのかもしれない。
 何もかもが、曖昧で。
 どこにいるのかも、わからなくて。



 スマホを見ると、朝倉くんからメッセージが来ていた。
 『辛い時こそ、写真を撮って。それが、桜井さんを守る方法だから』
 私は、返信しなかった。
 ただ、メッセージを読み返した。
 何度も、何度も。



 そして、もう一度カメラを手に取った。
 窓の外の雨を、また撮った。
 今度は、違う角度から。
 雨に濡れた窓ガラス。
 水滴が、ゆっくりと流れ落ちていく。
 その軌跡を、追いかけてシャッターを切った。



 写真を撮ることだけは、やめられなかった。
 たとえ一人でも。
 たとえ誰にも見せなくても。
 写真を撮ることが、今の私を生かしていた。
 それだけは、確かだった。




< 15 / 20 >

この作品をシェア

pagetop