名前を呼ぶまで、春は来ない

第16話 写真展前日

 写真部を辞めてから、二週間が経った。
 学校では、また一人になった。朝倉くんとも、極力目を合わせないようにしていた。彼が話しかけてきても、短く返事をするだけ。昼休みは一人で屋上へ行き、放課後はすぐに帰る。
 中学の時と、同じ日々。
 でも、一つだけ違うことがあった。
 写真を撮り続けていた。



 毎日、学校の帰り道や週末に、一人でカメラを持って街を歩いた。
 雨の日の水たまり。夕暮れの空。誰もいない公園。閉まった店のシャッター。
 寂しい景色ばかり撮っていた。
 でも、それが今の私の心だった。
 シャッターを切るたびに、少しだけ呼吸が楽になった。



 金曜日の夜、リビングで写真を整理していると、母が声をかけてきた。
「澪、また写真?」
「うん」
「最近、よく撮ってるわね」
「……暇だから」
 母は、私の隣に座った。
「どんな写真、撮ってるの?」



 私は、カメラを母に渡した。
 母が液晶画面を見ながら、一枚一枚写真を確認していく。
「……綺麗ね」
 母が、小さく呟いた。
「でも、寂しい」
「そう?」
「うん。どの写真も、誰もいない」
 母の言葉が、胸に刺さった。
 確かに、私の撮る写真には人がいなかった。
 意識的に避けていた。



「澪」
 母が、私を見た。
「この写真、誰かに見せた?」
「……誰にも」
「もったいないわ」
 母は、カメラを返しながら言った。
「こんなにいい写真なのに」
「別に、誰かに見せるために撮ってるわけじゃないから」
「でも」
 母は、少し考えてから言った。
「写真展に、出してみない?」



 写真展。
 その言葉に、心臓が跳ねた。
「……写真展?」
「うん。市民ギャラリーで、来月アマチュア写真展があるの。誰でも応募できるって」
 母は、スマホで情報を見せてくれた。
「締め切りは来週だけど、間に合うと思うわ」
「でも、私なんかが──」
「澪の写真、すごくいいわよ。自信持って」



 写真展。
 人に見せる。
 それは、怖かった。
 でも、同時に──少しだけ、やってみたいとも思った。
「……考えてみる」
「そう。無理はしなくていいからね」
 母は、優しく笑って台所へ戻っていった。



 その夜、ベッドに横になりながら考えた。
 写真展に出す。
 それは、私にとって大きな一歩だった。
 写真部の文化祭展示とは違う。
 知らない人たちに、自分の心を見せることになる。
 でも──。
 朝倉くんの言葉を思い出す。
 ──写真が、桜井さんの『声』だから。



 私は、写真でしか自分を表現できない。
 言葉では伝えられないことを、写真に込めている。
 なら、その写真を誰かに見てもらうことは──。
 私の声を、誰かに届けることになるのかもしれない。



 土曜日の朝、私は決めた。
 写真展に応募しよう。
 母に「応募する」と伝えると、母は嬉しそうに笑った。
「よかった。じゃあ、どの写真を出すか選ばないとね」
「うん」
 応募できるのは三枚まで。
 私は、これまで撮った写真を全部見返した。



 雨の日の水たまり。
 夕暮れの空。
 閉まった店のシャッター。
 誰もいない公園のベンチ。
 窓越しの雨。
 どれも、寂しい写真ばかりだった。
 でも、どれも私の心が写っていた。



 三枚を選ぶのは、難しかった。
 どれも、捨てられなかった。
 結局、一日かけて選んだのは──。
 雨に濡れた窓ガラス越しの街の景色。
 夕暮れの空と、一本だけ立っている街灯。
 そして、誰もいない公園のベンチに残された、忘れ物の傘。



 三枚とも、「境界線」がテーマだった。
 内と外。明と暗。誰かと私。
 境界線の上で、ずっと立ち尽くしている。
 それが、今の私だった。



 月曜日、学校で応募用紙を書いていると、朝倉くんが声をかけてきた。
「何書いてるの?」
 久しぶりに、彼から話しかけられた。
「……写真展の応募用紙」
「写真展?」
 私は、少し迷ってから説明した。
 市民ギャラリーのアマチュア写真展に応募すること。三枚の写真を選んだこと。



 朝倉くんは、嬉しそうな顔をした。
「それ、すごいじゃん」
「……そう?」
「うん。桜井さん、写真続けてたんだ」
「まあ、一応」
「よかった」
 彼は、本当に嬉しそうだった。
「写真、見せてもらえる?」



 私は、少し迷った。
 朝倉くんに写真を見せること。
 それは、距離を置くと決めたことに反する。
 でも──断れなかった。
「……いいよ」
 昼休み、屋上でカメラを見せた。
 朝倉くんは、一枚一枚じっくり見てくれた。



「……すごい」
 彼が、小さく呟いた。
「何が?」
「桜井さん、一人でこんなにいい写真撮ってたんだ」
 朝倉くんは、私を見た。
「特に、この傘の写真。すごくいい」
「ありがとう」
「忘れ物の傘。誰かがここにいた痕跡。でも、今はもういない」
 彼の言葉が、胸に響いた。
「それって、桜井さん自身のことみたいだね」



 私は、何も言えなかった。
 朝倉くんは、わかっているのだ。
 この写真が、私の心そのものだということを。
「写真展、頑張って」
 彼は、カメラを返しながら言った。
「きっと、たくさんの人に届くよ」
「……うん」
「それと」
 朝倉くんが、少し躊躇いながら言った。
「写真展、見に行っていい?」



 その質問に、心臓が跳ねた。
「……来るの?」
「うん。桜井さんの写真、ちゃんと見たいから」
 距離を置くと言った。
 でも、朝倉くんは諦めていなかった。
 まだ、私のことを──。
「……来てくれるなら、嬉しい」
 小さく、そう言った。



 その週、私は応募用紙と写真データを提出した。
 結果は二週間後。
 選ばれれば、展示される。
 選ばれなければ、それまで。
 でも、応募したこと自体が、私にとっては大きな一歩だった。



 二週間後、金曜日。
 結果の通知が、メールで届いた。
 スマホを開くのが怖かった。
 でも、開かないわけにはいかなかった。
 深呼吸をして、メールを開く。



 『選考の結果、あなたの作品が入選いたしました』
 心臓が、激しく鳴った。
 入選した。
 私の写真が、選ばれた。
 信じられなかった。
 何度も、メールを読み返した。



 家に帰って、母に報告した。
「お母さん、入選した」
「本当? やったわね、澪!」
 母は、抱きしめてくれた。
「お母さん、絶対見に行くからね」
「うん」
 母の温もりが、嬉しかった。



 翌日、土曜日。
 朝倉くんにメッセージを送った。
 『写真展、入選しました』
 すぐに返事が来た。
 『おめでとう! 絶対見に行くね』
 その言葉が、嬉しかった。
 朝倉くんが、来てくれる。
 私の写真を、見てくれる。



 写真展は、来週の土曜日から三日間。
 場所は、駅前の市民ギャラリー。
 私は、カレンダーにマルをつけた。
 この日が、私にとって新しいスタートになるかもしれない。
 そんな予感がした。



 日曜日、私は一人で市民ギャラリーの下見に行った。
 どんな場所で、私の写真が展示されるのか。
 それを確認したかった。
 ギャラリーは、駅から徒歩五分の場所にあった。
 白い壁の、清潔感のある建物。



 中に入ると、受付の人が「何か御用ですか?」と聞いてきた。
「あの、来週の写真展に出展するんですけど」
「ああ、そうなんですね。搬入は金曜日ですよ」
「はい、わかってます」
 受付の人は、展示会場を案内してくれた。



 広い空間に、白い壁。
 天井は高く、照明が柔らかく会場を照らしている。
 ここに、私の写真が飾られる。
 想像しただけで、緊張した。
 でも、同時に──少しだけ、楽しみでもあった。



 帰り道、公園を通りかかった。
 ベンチに、誰かが座っていた。
 朝倉くんだった。
「……朝倉くん?」
 声をかけると、彼が振り向いた。
「桜井さん。偶然だね」
「うん」



 私は、朝倉くんの隣に座った。
 しばらく、二人とも何も話さなかった。
 ただ、公園の景色を眺めていた。
「桜井さん」
 朝倉くんが、口を開いた。
「写真展、楽しみにしてる」
「……ありがとう」
「桜井さんの写真、きっとたくさんの人に届くよ」
「そうかな」
「うん。だって、桜井さんの『声』だから」



 また、その言葉。
 写真が、私の声。
「朝倉くん」
「ん?」
「私、まだ怖い」
「何が?」
「人に見られること。評価されること」
 正直に言った。
「でも、それでも写真展に出すことにした」



 朝倉くんは、私を見た。
「それは、すごく勇気のいることだよ」
「……そうかな」
「うん。桜井さん、ちゃんと前に進んでる」
 前に進んでいる。
 本当に、そうだろうか。
 まだ、よくわからない。
 でも、少なくとも──立ち止まってはいない気がした。



 その夜、ベッドに横になりながら考えた。
 写真展まで、あと六日。
 私の写真が、知らない人たちに見られる。
 どんな反応があるだろう。
 褒められるだろうか。
 それとも、批判されるだろうか。



 でも、どんな反応でも──。
 私は、自分の声を届けることができる。
 言葉では伝えられなかったことを。
 それだけで、意味があるのかもしれない。



 スマホに、母からメッセージが来た。
 『澪、頑張ってね。お母さん、応援してるから』
 その言葉に、少しだけ勇気をもらった。
 私には、応援してくれる人がいる。
 母も。
 そして、朝倉くんも。
 一人じゃない。
 そう思えるようになったのは、いつからだろう。



 金曜日、搬入の日。
 学校を早退して、ギャラリーへ向かった。
 プリントした写真三枚を、慎重にパネルに貼り付ける。
 受付の人が、展示の場所を教えてくれた。
 入り口から入って、右側の壁。
 そこに、私の写真が並ぶ。



 パネルを壁に掛けた瞬間、胸が熱くなった。
 私の写真が、ここにある。
 誰かに見てもらえる。
 それが、嬉しくて、怖くて、でも──誇らしかった。



 搬入を終えて、一度会場全体を見回った。
 他の出展者の写真も、すでに展示されていた。
 風景写真、人物写真、抽象的な写真。
 色々な作品があった。
 その中に、私の写真も並んでいる。
 不思議な感覚だった。



 帰り際、もう一度自分の写真を見た。
 雨に濡れた窓ガラス越しの街。
 夕暮れの空と街灯。
 誰もいない公園のベンチと、忘れ物の傘。
 どれも、寂しい写真だった。
 でも、どれも私の心が写っていた。



 明日から、三日間。
 この写真が、たくさんの人に見られる。
 私の声が、届くかもしれない。
 そう思うと、少しだけ──。
 前を向ける気がした。

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