名前を呼ぶまで、春は来ない

第3話 仮入部の日

 考えとく、と言ってから三日が経った。
 その三日間、私は写真部のことを考えないようにしていた。朝倉くんとは席が隣だから毎日顔を合わせるけれど、彼は一度も写真部の話をしなかった。三島先輩も、廊下で見かけるたびに笑顔で手を振るだけで、勧誘はしてこなかった。
 それが、かえって気になった。
 普通なら、また声をかけてくるはずだ。どうだった、考えてくれた、そろそろ決めてよ──そういう圧力が来るはずなのに。
 何も来ない。
 ただ待っている。
 その待ち方が、私の知っている人間関係のパターンと、少しだけ違った。



 木曜日の午後、数学の授業中に雨が降り始めた。
 最初は細い糸のような雨だったのが、放課後になる頃には本降りになっていた。桜の花びらが、雨に打たれて地面に落ちていく。今朝まで枝に咲いていた花が、一斉に散っていく。
 下駄箱で折り畳み傘を広げながら、私は外を見た。
 雨の中を走る生徒、傘を貸し借りする友達同士、部活をあきらめて帰る生徒たち。
 校門の前で、一人の女子生徒が立ち止まって空を見上げていた。傘を持っていないのか、濡れるのを覚悟しているのか、ただじっと雨を眺めている。
 誰かに傘を貸してあげればいい、と思った。でも、私には関係ない。
 そう思った瞬間、胸の奥でなにかが疼いた。
 ──関係ない。
 その言葉は、いつも私の心の一番深いところにある。誰にも関わらない。誰の人生にも踏み込まない。それが、私の守り方だった。
 でも、守れば守るほど、何かが遠くなっていく気がした。



 傘を差して外へ出ると、雨の音が耳を包んだ。
 足元の水たまりに、花びらが浮かんでいる。ピンク色の花びらと、灰色の空が水面に映って、奇妙に美しい景色を作っていた。
 ──これを、写真に撮ったらどうなるだろう。
 ふと、そんなことを思った。
 カメラのファインダー越しに見たら、この水たまりはどんな色に映るだろう。雨の音は写真には映らないけれど、この静けさは伝わるだろうか。
 そこまで考えて、私は立ち止まった。
 なんで、写真のことを考えているんだろう。



 気がついたら、足が三階へ向かっていた。
 廊下を歩きながら、自分でも不思議だった。帰ろうと思っていたのに、なぜか足が写真部の部室に向かっている。
 扉の前で立ち止まる。
 中から、かすかに話し声が聞こえた。複数人の声。部員が活動しているらしい。
 ノックしようとして、手が止まった。
 やっぱり、帰ろうか。
 こんなふうに突然来ても、迷惑じゃないだろうか。三日間考えたあげく、雨の日に現れるなんて、変な人だと思われるかもしれない。
「桜井さん?」
 後ろから声がかかった。
 振り向くと、朝倉くんが廊下を歩いてきた。手にカメラを持ち、首にはストラップをかけている。
「来たんだ」
 彼は、驚いた様子もなく、ごく自然にそう言った。
「……雨で、暇だったから」
 我ながら、変な言い訳だと思った。雨で暇なら家に帰ればいい。
「そっか。じゃあ、入ろうよ」
 朝倉くんが扉を開けた。



 部室の中には、三人の部員がいた。
 パソコンの前で写真を編集している三島先輩、机に向かって何かを書いている男子生徒、窓際に座って本を読んでいる女子生徒。
「あ、来た!」
 三島先輩が顔を上げた。
「すごい、ほんとに来るとは思わなかった」
「失礼な言い方ですね、先輩」
 朝倉くんが苦笑した。
「あ、ごめんごめん。嬉しいって意味ね! えっと、桜井さんだっけ?」
「……はい」
「私が副部長の三島。こっちが水野くん、あっちが伊藤さん」
 紹介された二人が、軽く会釈した。私も小さく頭を下げる。
「部員は今、全部で六人。二年が私と朝倉、三年が二人いるんだけど今日は来てないの。一年生はまだ入部決まってないから、桜井さんが一番の新入りになるかな」
「あの、まだ入部するって決めたわけじゃ──」
「わかってる、わかってる。仮入部でいいから、まずは雰囲気見てって」
 三島先輩は、全てを先読みしたようにそう言って、また画面に視線を戻した。



 部室の隅に置かれた椅子に座り、私は部員たちの様子を眺めた。
 三島先輩はパソコンで写真を選んでいる。水野くんは活動記録らしきものをノートに書いている。伊藤さんは静かに本を読んでいる。
 それぞれが、それぞれのことをしている。
 誰も私に話しかけてこない。でも、無視しているわけでもなく、ただそこにいることを自然に受け入れている。
 この感じは、知らなかった。
 グループの中にいると、いつも何か役割を求められる気がしていた。話を盛り上げる役、笑いを提供する役、聞き役。でも、ここでは誰もそういうことを求めていない。
「桜井さん、カメラ触ってみる?」
 朝倉くんが、棚からカメラを取り出して差し出してきた。
「……いいの?」
「このカメラ、部の備品だから誰でも使えるんだ。雨の日は外に出られないから、室内で撮影練習するのがうちのルールで」
「室内で何を撮るの?」
「なんでも。部室の中でもいいし、廊下でもいい。窓から外を撮るのも面白いよ」
 私は、おそるおそるカメラを受け取った。先日より少し慣れた手つきで、ストラップを首にかける。



 ファインダーを覗くと、部室の景色が切り取られた。
 パソコンに向かう三島先輩の横顔。机の上に積み重なった写真集。窓ガラスを伝う雨粒。
 私は、窓の方へ近づいた。
 ガラス越しに外を見ると、雨に煙る校庭が見えた。誰もいない校庭。水たまりに波紋が広がっている。桜の花びらが、雨に押しつぶされるように地面に張りついていた。
 ファインダーを構える。
 窓ガラスに、部室の中の景色がうっすらと映り込んでいる。外の雨景色と、内側の人の気配が、ガラスの中で重なっていた。
 ──これだ。
 何かが胸の中でひっかかった。
 外と内が、一枚のガラスを隔てて存在している。外にいる人には見えない、内側の景色。内側にいる人が見ている、外の世界。
 その境界線が、今の私みたいだと思った。
 シャッターを切った。



「見せて」
 朝倉くんが隣に来て、液晶画面を覗き込んだ。
 私も一緒に見る。
 窓ガラスに映り込んだ部室の輪郭と、その向こうに広がる雨の校庭。ぼんやりとした光と影が重なって、夢の中みたいな一枚になっていた。
「……すごい」
 朝倉くんが、小さく呟いた。
「え?」
「これ、狙って撮ったの?」
「……なんとなく」
「なんとなくでこれが撮れるの、やっぱりセンスだと思う」
 三島先輩が、いつの間にか隣に来ていた。
「ちょっと待って、見せて」
 液晶画面を見た三島先輩が、少し目を丸くした。
「これ、映り込みを使ったんだ。わかってて撮った?」
「……よくわかんないです。ただ、きれいだと思って」
「十分よ。感覚で撮れる子の方が、下手に理屈で撮る子より伸びるから」



 その後、一時間ほど部室で過ごした。
 私は、カメラを持って部室の中をゆっくり歩き回った。机の上に置かれたカメラのレンズ。窓枠の隅に溜まった埃。三島先輩の手元。伊藤さんが読んでいた本の表紙。
 誰かを撮る時は、声をかけた。
「撮ってもいいですか」
「いいよー」と三島先輩。
「どうぞ」と水野くん。
 伊藤さんは少し恥ずかしそうにしながら、でも嫌ではなさそうに頷いた。
 人の顔を撮るのは、初めてだった。
 ファインダーを通して人を見ると、いつもと違うものが見えてくる気がした。三島先輩の、普段の快活さの裏にある集中した表情。水野くんの、几帳面な手つき。伊藤さんの、静かな目の奥にある何か。
 写真は、言葉を使わない。
 それが、今の私には少しだけ楽だった。



 帰り際、三島先輩が仮入部届けを差し出してきた。
「これ、もし良かったら。強制じゃないから」
 一枚の紙。名前と学年を書くだけの、シンプルな用紙。
 私は、少し迷った。
 仮入部でも、踏み込んでしまう気がする。ここに名前を書いたら、少しだけ関係が生まれてしまう。
「……ペン、貸してもらえますか」
 自分でも驚くほど、自然にそう言っていた。
 三島先輩が差し出したペンを受け取って、用紙に名前を書く。
 桜井澪。
 自分の名前を書きながら、不思議な気持ちになった。
 名前を呼ばれるのは怖い。でも、自分で名前を書くのは、少しだけ違った感覚がある。
 これは、私がここにいることを、私自身が選んだということだから。



「ありがとう!」
 三島先輩が笑顔で受け取った。
「じゃあ、明日から正式に仮入部ね。まずは週二回の活動に参加してもらうことと、一ヶ月以内に写真を五枚撮ってくること。それだけでいい。入部するかどうかは、それから決めてくれたらいいから」
「……わかりました」
「何かわからないことがあったら、何でも聞いて。朝倉くんでも私でも」



 帰り道、雨は少し弱まっていた。
 傘を差しながら、今日を振り返る。
 写真を撮った。部員たちと話した。仮入部届けに名前を書いた。
 どれも、私が「しないと決めていたこと」だった。なのに、気がついたらやっていた。
 写真を撮っている時間は、不思議と怖くなかった。
 ファインダーを通して世界を見ていると、自分の感情を言葉にしなくていい。うまく話せなくていい。ただ、シャッターを切るだけでいい。
 それが、私にとっての「話し方」になるかもしれない。
 そんなことを、初めて思った。



 家に帰ると、また母が台所にいた。
「おかえり。今日は遅かったね」
「うん。ちょっと寄り道した」
「どこに?」
 少し考えてから、答えた。
「写真部」
 母が、手を止めた。
「写真部?」
「うん。仮入部した」
 台所が、静かになった。
「……そう」
 母の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「夕飯、好きなもの作ろうか。何食べたい?」
「なんでもいい」
「シチューはどう? 澪、好きでしょ」
「……うん」
 私は部屋に上がりながら、なぜか目の奥が熱くなった。
 泣くほどのことじゃない。ただ、写真部に仮入部しただけ。
 でも、それが今日の私には、少しだけ大きな一歩だった気がした。

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