名前を呼ぶまで、春は来ない

第8話 澪の中学時代

 金曜日の朝、私は学校を休んだ。
 母に「体調が悪い」と伝えると、母は心配そうな顔をしたけれど、それ以上何も聞かなかった。おでこに手を当てて、「熱はないみたいだけど」と呟いてから、「ゆっくり休みなさい」と言ってくれた。
 母が仕事に出かけた後、私は一人でベッドに横になった。
 天井を見上げる。白い天井。何の変哲もない天井。
 昨日の黒板の落書きが、頭から離れなかった。
 『桜井、友達裏切るの得意だよね』
 裏切る。
 そんなつもりはなかった。ただ、怖かっただけ。
 でも、結果的に私は美咲を一人にした。それは、裏切りと同じなのかもしれない。



 スマホに、写真部のグループLINEから通知が来ていた。
 三島先輩からのメッセージ。
 『今日は文化祭の展示について話し合うから、みんな来てね』
 私は、返信しなかった。
 今日は、行けない。
 行く気力がない。



 午前中、ずっとベッドで過ごした。
 何もする気が起きなかった。
 昼になって、ようやく起き上がってリビングに行く。冷蔵庫を開けるけれど、食欲がない。
 結局、何も食べずにまた部屋に戻った。
 机の上に、カメラがあった。
 三島先輩から借りたカメラ。
 もう一週間以上、触っていない。
 写真を撮る気力も、なくなっていた。



 午後二時頃、スマホが鳴った。
 朝倉くんからの着信。
 出るべきか迷ったけれど、三回目のコールで出た。
「もしもし」
「桜井さん。今日、学校休んでるって聞いた。大丈夫?」
「……うん。ちょっと体調悪くて」
「そっか。無理しないでね」
 彼の声は、いつも通り穏やかだった。
「あのさ、部活の後、ちょっと寄ってもいい? プリント届けたいんだ」
「……来なくていいよ。明日学校で」
「でも、心配だから」
 心配。
 その言葉が、少しだけ嬉しくて、同時に申し訳なかった。
「……じゃあ、お願い」



 午後五時、チャイムが鳴った。
 朝倉くんだった。
 玄関を開けると、彼は制服姿のまま立っていた。手には、ファイルとコンビニの袋。
「プリントと、あとこれ」
 袋を差し出してきた。
 中を見ると、ゼリー飲料とおにぎりが入っていた。
「体調悪い時って、固形物食べにくいかと思って」
「……ありがとう」
「あ、あと、部活で決まったこと伝えとくね」



 朝倉くんは、玄関先で立ったまま話し始めた。
「文化祭の展示、一人十枚ずつ出すことになった。テーマは『境界線』で変わらず。あと、展示の順番とか配置は来週決めるって」
「……わかった」
「桜井さん、今何枚撮った?」
「八枚」
「じゃあ、あと二枚だね。焦らなくていいから」
 彼は、優しく笑った。
「それと」
 少し言いにくそうに、彼が続けた。
「クラスで、何か言われてるの?」



 その質問に、私は固まった。
「……なんで?」
「今日、クラスの子に聞いたんだ。桜井さんのこと。そしたら、中学の時のことを教えてくれた」
 胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「どこまで聞いたの?」
「友達が孤立してた時、桜井さんが声をかけられなかったこと。その子が転校したこと」
 朝倉くんは、私の目を見て言った。
「でも、それだけじゃわからない。本当は、何があったの?」



 私は、少し考えてから、口を開いた。
「……上がる?」
「いいの?」
「うん。ちゃんと話す」
 朝倉くんを、リビングに通した。
 お茶を入れて、向かい合って座る。
「中学二年生の時」
 私は、ゆっくりと話し始めた。
「美咲っていう親友がいた。小学校からの付き合いで、いつも一緒にいた」



 美咲は、明るい子だった。
 誰とでも仲良くなれて、クラスの人気者だった。私は大人しくて目立たない性格だったけれど、美咲が隣にいてくれたから、学校生活は楽しかった。
 でも、中学二年生の夏。
 美咲が、クラスの女子グループと喧嘩した。
 些細なことだった。誰かの悪口を言ったとか、言わなかったとか。真相はよくわからない。
 でも、その日から美咲は孤立した。



「最初は、数人が美咲を無視するだけだった。でも、一週間もしないうちに、クラス全体に広がった」
 私は、お茶を一口飲んだ。
「美咲は、毎日一人で過ごすようになった。教室でも、廊下でも、いつも一人」
「桜井さんは?」
「……私は、怖かった」
 正直に言った。
「美咲に声をかけたら、私も孤立するかもしれない。そう思ったら、足が動かなくなった」



 毎日、美咲の隣を通り過ぎた。
 目が合っても、逸らした。
 助けを求める視線を、見て見ぬふりをした。
「一ヶ月くらい経った時、美咲が私に手紙をくれた」
 その手紙は、今でも引き出しの奥にしまってある。
「『澪、助けて』って書いてあった。『一人は辛い。話しかけてほしい』って」
 朝倉くんは、黙って聞いていた。
「でも、私は返事を書けなかった。手紙をもらったことも、誰にも言わなかった」



 それから二ヶ月後、美咲は転校した。
 最後の日、美咲は教室で一人、荷物をまとめていた。
 私は、教室の入り口で立ち尽くしていた。
 声をかけようと思った。「ごめん」と言おうと思った。
 でも、声が出なかった。
 美咲は、一度だけこちらを見た。
 その目には、怒りも恨みもなかった。
 ただ、諦めがあった。
 それが、一番辛かった。



「それ以来、私は人と深く関わるのが怖くなった」
 私は、朝倉くんを見た。
「名前を呼ぶのが怖くなった。誰かの名前を呼ぶことは、その人の人生に踏み込むこと。でも、私はそれができなかった」
「だから、今も距離を置いてるの?」
「……うん」
 朝倉くんは、しばらく黙っていた。
 そして、静かに言った。
「桜井さん、それは桜井さんだけのせいじゃない」
「でも──」
「中学生の時って、みんな怖いんだよ。孤立するのが。仲間外れにされるのが。だから、声をかけられなかったことを責めないでほしい」



 彼の言葉は、優しかった。
 でも、私の中の罪悪感は消えなかった。
「今でも、夢に見るんだ。美咲が一人で座ってる夢。私が通り過ぎる夢」
「……そっか」
「だから、今クラスで何か言われても、仕方ないって思う。私は、本当に友達を見捨てたから」
 朝倉くんは、少し考えてから言った。
「でも、今の桜井さんは違うよね」
「え?」
「写真部に入って、みんなと一緒に活動してる。それって、もう一度人と関わろうとしてるってことでしょ」



 私は、何も言えなかった。
 確かに、写真部に入った。
 でも、それは本当に「人と関わろうとした」からなのか。
 ただ、写真が撮りたかっただけじゃないのか。
「桜井さん」
 朝倉くんが、私の名前を呼んだ。
「俺、桜井さんのこと尊敬してる」
「……なんで?」
「だって、怖いのに、また一歩踏み出そうとしてるから」
 彼の言葉が、胸に響いた。
「過去があるから、今がある。桜井さんが今こうして写真を撮ってるのは、あの時の後悔があるからだと思う」



 その夜、朝倉くんが帰った後、私は一人で考えた。
 リビングのソファに座って、窓の外を見る。
 夕暮れの空が、オレンジ色に染まっていた。
 朝倉くんの言葉を、何度も反芻する。
 ──過去があるから、今がある。
 それは、本当だろうか。
 美咲を見捨てたから、今の私がある?
 そんなふうに、肯定的に捉えていいのだろうか。



 机の引き出しを開けて、美咲からの手紙を取り出した。
 薄い便箋に、丁寧な字で書かれた文章。
 『澪、助けて。一人は辛い。話しかけてほしい』
 その下に、小さく書かれていた。
 『でも、澪も怖いんだよね。ごめんね、こんなこと書いて』
 美咲は、わかっていた。
 私が怖がっていることを。
 それでも、助けを求めた。
 そして、私は応えられなかった。



 カメラを手に取った。
 三島先輩から借りたカメラ。
 一週間ぶりに、電源を入れる。
 液晶画面に、最後に撮った写真が映った。
 海の写真。波打ち際の境界線。
 あの日は、楽しかった。
 朝倉くんと一緒に歩いて、みんなと写真を見せ合って。
 一瞬でも、過去を忘れられた。



 ファインダーを覗く。
 リビングの窓から見える夕焼け。
 オレンジと紫の境界線。
 昼と夜の境界線。
 そして──過去と未来の境界線。
 私は今、その境界線の上に立っている。
 前に進むべきか、後ろに戻るべきか。
 シャッターを切った。
 カシャ、という音が、静かな部屋に響いた。



 その音が、少しだけ私を前に押してくれた気がした。
 まだ、答えは出ていない。
 でも、少なくとも今日、朝倉くんに過去を話せた。
 それは、小さな一歩かもしれない。
 とても小さな。
 でも、確かな一歩。



 スマホに、朝倉くんからメッセージが来た。
 『今日は話してくれてありがとう。桜井さんのペースで大丈夫だから、焦らないでね』
 私は、返信した。
 『ありがとう。聞いてくれて』
 送信してから、もう一通送った。
 『明日、学校行く』
 すぐに返事が来た。
 『うん。待ってる』



 待ってる。
 その言葉が、嬉しかった。
 誰かが、私を待っていてくれる。
 それだけで、明日学校に行く理由になった。



 夜、母が帰ってきた。
「澪、体調どう?」
「……もう大丈夫」
「そう。よかった」
 母は、ほっとした顔をした。
「今日、友達が来てくれたのね。プリント置いてあったから」
「うん。写真部の人」
「そう。いい友達ね」
 友達。
 朝倉くんは、友達なのだろうか。
 まだ、よくわからない。
 でも、少なくとも彼は、私のことを気にかけてくれている。
 それだけは、確かだった。



 ベッドに横になって、目を閉じる。
 明日は、学校に行く。
 クラスの視線が怖いけれど、写真部には行く。
 朝倉くんが、待っていてくれるから。
 三島先輩も、みんなも、待っていてくれるから。
 私は、もう一人じゃない。
 そう思えるようになったのは、いつからだろう。
 写真を撮り始めてから?
 朝倉くんと出会ってから?
 それとも──。



 眠りに落ちる直前、美咲の顔を思い浮かべた。
 転校先で、新しい友達と笑っている美咲。
 彼女は、幸せそうだった。
 私がいなくても、ちゃんと生きている。
 それでいいのかもしれない。
 私は、美咲の人生に踏み込めなかった。
 でも、だからといって、私が前に進んではいけないわけじゃない。
 朝倉くんの言葉を、もう一度思い出す。
 ──過去があるから、今がある。
 そして、今があるから、未来がある。

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