国を追われましたが、文官令嬢としてセカンドライフを送ります!
第四章 魔導書の完成②
この日からロゼッタは本来の仕事だけでなく、魔導書の力を引き出す術者としての役割も兼ねるようになった。
(今夜中に、この本の翻訳を終わらせておきたいわ)
日が沈み、司書も去った図書室にページをめくる音と、ペンを走らせる音だけが静かに響いている。隠し部屋の傍らで、ロゼッタはいつものように翻訳作業に没頭していた。
この日は、作物の育たない農村へ出向いていた。あらかじめ兵士たちが魔法陣を作成してくれたおかげで移動は一瞬で済んだが、現地の村人たちと話し込んでしまい、王城へ戻る頃にはすっかり夕方になっていた。
(土に栄養は与えてきたけど、魔法だって万能じゃないわ。ずっと効果が続くわけじゃないから、結局はこれからの手入れにかかっているのよね)
確かに魔導書の力は強大だ。けれど、その力を最大限に引き出せるかは、使う側の人間にかかっている。決して魔法に頼りきりになってはいけない。
そこまで考えたところで、ロゼッタははっと我に返った。今は翻訳に集中しなければと、意識を再びぼろぼろの古書へと向ける。
今回の内容は、とある女性作家による恋愛小説だった。男爵令嬢の主人公が街で偶然出会った王子と親交を深め、次第に惹かれていく……という、よくありがちな物語だ。
(貴族制度自体はこの頃からあったみたいだけど、子爵位はまだ存在していなかったのかしら。どこにも記述がないわ)
小説というものは、当時の暮らしを紐解くための貴重な資料でもある。人々の営みや住まいの造り、食生活に至るまで、あらゆる生活の断片を知ることができるからだ。
その時代の情景を脳裏に描きながら、ロゼッタは物語を自分の言葉で紡いでいく。
主人公と王子の仲は人知れず深まっていくが、非情にも王子と、とある公爵令嬢との婚約が告げられる。主人公は愛する人の幸せを願って身を引く決心をするが、結婚式当日、王子は自ら命を絶ってしまう。
そして主人公は癒えない傷を抱えたまま、独りで生き続けなければならないという結末を迎えるのだった。
ありふれた筋書きで、ラストも意外性はない。けれど、その描写はやけに生々しかった。
(ああ、やっぱりそういうことだったのね)
後書きにこの物語は実体験に基づいたものだと記されているのを見て、ロゼッタは腑に落ちた。同時に、作者が抱えていたであろう心情を想像する。
(相手が自分を忘れて幸せになることと、自分を愛したために破滅してしまうこと。どちらが残酷なのかしら)
それほどまでに人を愛したことも、誰かに愛された経験もない自分には無縁な話だ。
そう思った途端、いつも親身に接してくれる宰相の顔が脳裏をよぎった。
「……どうしてエドガーさん?」
そう自問しながら、ロゼッタは翻訳した文章の読み直しを始めた。
カツン、カツンと人気のない廊下にふたり分の靴音が響く。
エドガーとユーグが図書室を訪れたのは、二十時を過ぎた頃だった。今日はロゼッタから残業の願い出があり、隠し部屋の施錠を遅らせていたのだ。
「ロゼッタ、進み具合はどうだい? ……ロゼッタ?」
椅子に座る後ろ姿に声をかけたが返事はない。古書やノートを広げたまま、机に突っ伏して眠ってしまっているようだ。微かな寝息だけが規則的に響いている。
「寝ていらっしゃるようですね」
「最近はずっと忙しかったからな……相当、疲れが溜まっているんだろう」
ロゼッタを起こさないよう声を潜めながら、エドガーは小さく溜め息をついた。
「彼女は仕事も早く、要領もいい。それをいいことに、つい甘えてしまっていたようだ」
「そうですね。翻訳作業と魔導書の行使に加え、エドガー様のお話相手……さぞや、お疲れのことでしょう」
「……私と話をしている時の彼女は、楽しそうに見える」
部下の聞き捨てならない物言いに、エドガーはむっと眉を寄せた。けれど、すぐに冷静さを取り戻して軽く咳払いをする。
「とにかく、彼女には休暇が必要だ。何か息抜きができればいいのだが」
「でしたら、私に名案がございます」
ユーグがぼそぼそと耳打ちをすると、エドガーは途端に不安そうな顔を見せた。
「そんなことで、彼女に喜んでもらえるだろうか……」
「間違いなく」
自信満々に頷くユーグだが、エドガーの表情は曇ったままだった。
「さて、やり残した仕事を思い出しましたので、私は失礼させていただきます」
一礼して去っていくユーグの背を見送ると、エドガーは未だに眠る少女をしばし見つめ、ゆっくりと歩み寄った。普段、好奇心に輝いている菫色の瞳も、今は瞼の裏に隠されている。その無防備な寝顔は、この国一番の才女をあどけなく見せていた。
「お疲れ様、ロゼッタ」
エドガーは着ていたジャケットを脱ぎ、ロゼッタの肩に優しくかけた。髪の色と同じ睫毛に縁取られた瞼が、ぴくりと震える。
「ん……あ、エドガーさん?」
「おはよう、ロゼッタ」
「すみません。私、いつの間に……」
慌てて姿勢を正そうとするロゼッタに、エドガーが穏やかに笑いかける。
「謝らなくていいよ。少し相談があるんだ」
「相談ですか?」
「明後日、君に休みを取ってもらうつもりなんだけど……ちょうど僕も休みだから、一緒に出かけないかい?」
「あ、国立図書館にですか?」
久しぶりに一緒に行けると、ロゼッタの顔がぱっと明るくなる。エドガーは困ったように笑って首を横に振った。
「図書館だけじゃなくてさ。王都のいろんな場所に行ってみようと思って。まあ、君が良ければの話なんだけど」
「いろんな……場所?」
ロゼッタのぽかんとした反応を見て、エドガーは焦ったように付け加えた。
「あ、いや、いいんだよ。無理はしなくて。仕事の延長じゃないんだし……」
「是非ご一緒させてください!」
被せ気味で返事をしたロゼッタの声は、楽しげに弾んでいた。
「ありがとう。今まで君には仕事ばかりを押しつけてしまった。たまにはゆっくり足を休める時間も必要だからね」
「いえ。好きでやっていることですから、気にしないでください」
「そうはいかないよ。……夜も遅いし今日はもう帰ろうか」
「はい。すぐに片づけてきますね」
ロゼッタが古書を戻しに行くのを待って、エドガーは隠し部屋の扉に鍵をかけた。
「それじゃあ、おやすみ。ロゼッタ」
「おやすみなさい、エドガーさん」
エドガーと別れて自室に戻った途端、ロゼッタはふにゃりと緩んだ頬を両手で押さえた。じっとしていられなくて、部屋の中をぐるぐると歩き回る。
(エドガーさんとお出かけか。楽しみだな)
その夜、ロゼッタはベッドに潜り込んだあとも胸の高鳴りが収まらず、しばらく寝つくことができなかった。
(今夜中に、この本の翻訳を終わらせておきたいわ)
日が沈み、司書も去った図書室にページをめくる音と、ペンを走らせる音だけが静かに響いている。隠し部屋の傍らで、ロゼッタはいつものように翻訳作業に没頭していた。
この日は、作物の育たない農村へ出向いていた。あらかじめ兵士たちが魔法陣を作成してくれたおかげで移動は一瞬で済んだが、現地の村人たちと話し込んでしまい、王城へ戻る頃にはすっかり夕方になっていた。
(土に栄養は与えてきたけど、魔法だって万能じゃないわ。ずっと効果が続くわけじゃないから、結局はこれからの手入れにかかっているのよね)
確かに魔導書の力は強大だ。けれど、その力を最大限に引き出せるかは、使う側の人間にかかっている。決して魔法に頼りきりになってはいけない。
そこまで考えたところで、ロゼッタははっと我に返った。今は翻訳に集中しなければと、意識を再びぼろぼろの古書へと向ける。
今回の内容は、とある女性作家による恋愛小説だった。男爵令嬢の主人公が街で偶然出会った王子と親交を深め、次第に惹かれていく……という、よくありがちな物語だ。
(貴族制度自体はこの頃からあったみたいだけど、子爵位はまだ存在していなかったのかしら。どこにも記述がないわ)
小説というものは、当時の暮らしを紐解くための貴重な資料でもある。人々の営みや住まいの造り、食生活に至るまで、あらゆる生活の断片を知ることができるからだ。
その時代の情景を脳裏に描きながら、ロゼッタは物語を自分の言葉で紡いでいく。
主人公と王子の仲は人知れず深まっていくが、非情にも王子と、とある公爵令嬢との婚約が告げられる。主人公は愛する人の幸せを願って身を引く決心をするが、結婚式当日、王子は自ら命を絶ってしまう。
そして主人公は癒えない傷を抱えたまま、独りで生き続けなければならないという結末を迎えるのだった。
ありふれた筋書きで、ラストも意外性はない。けれど、その描写はやけに生々しかった。
(ああ、やっぱりそういうことだったのね)
後書きにこの物語は実体験に基づいたものだと記されているのを見て、ロゼッタは腑に落ちた。同時に、作者が抱えていたであろう心情を想像する。
(相手が自分を忘れて幸せになることと、自分を愛したために破滅してしまうこと。どちらが残酷なのかしら)
それほどまでに人を愛したことも、誰かに愛された経験もない自分には無縁な話だ。
そう思った途端、いつも親身に接してくれる宰相の顔が脳裏をよぎった。
「……どうしてエドガーさん?」
そう自問しながら、ロゼッタは翻訳した文章の読み直しを始めた。
カツン、カツンと人気のない廊下にふたり分の靴音が響く。
エドガーとユーグが図書室を訪れたのは、二十時を過ぎた頃だった。今日はロゼッタから残業の願い出があり、隠し部屋の施錠を遅らせていたのだ。
「ロゼッタ、進み具合はどうだい? ……ロゼッタ?」
椅子に座る後ろ姿に声をかけたが返事はない。古書やノートを広げたまま、机に突っ伏して眠ってしまっているようだ。微かな寝息だけが規則的に響いている。
「寝ていらっしゃるようですね」
「最近はずっと忙しかったからな……相当、疲れが溜まっているんだろう」
ロゼッタを起こさないよう声を潜めながら、エドガーは小さく溜め息をついた。
「彼女は仕事も早く、要領もいい。それをいいことに、つい甘えてしまっていたようだ」
「そうですね。翻訳作業と魔導書の行使に加え、エドガー様のお話相手……さぞや、お疲れのことでしょう」
「……私と話をしている時の彼女は、楽しそうに見える」
部下の聞き捨てならない物言いに、エドガーはむっと眉を寄せた。けれど、すぐに冷静さを取り戻して軽く咳払いをする。
「とにかく、彼女には休暇が必要だ。何か息抜きができればいいのだが」
「でしたら、私に名案がございます」
ユーグがぼそぼそと耳打ちをすると、エドガーは途端に不安そうな顔を見せた。
「そんなことで、彼女に喜んでもらえるだろうか……」
「間違いなく」
自信満々に頷くユーグだが、エドガーの表情は曇ったままだった。
「さて、やり残した仕事を思い出しましたので、私は失礼させていただきます」
一礼して去っていくユーグの背を見送ると、エドガーは未だに眠る少女をしばし見つめ、ゆっくりと歩み寄った。普段、好奇心に輝いている菫色の瞳も、今は瞼の裏に隠されている。その無防備な寝顔は、この国一番の才女をあどけなく見せていた。
「お疲れ様、ロゼッタ」
エドガーは着ていたジャケットを脱ぎ、ロゼッタの肩に優しくかけた。髪の色と同じ睫毛に縁取られた瞼が、ぴくりと震える。
「ん……あ、エドガーさん?」
「おはよう、ロゼッタ」
「すみません。私、いつの間に……」
慌てて姿勢を正そうとするロゼッタに、エドガーが穏やかに笑いかける。
「謝らなくていいよ。少し相談があるんだ」
「相談ですか?」
「明後日、君に休みを取ってもらうつもりなんだけど……ちょうど僕も休みだから、一緒に出かけないかい?」
「あ、国立図書館にですか?」
久しぶりに一緒に行けると、ロゼッタの顔がぱっと明るくなる。エドガーは困ったように笑って首を横に振った。
「図書館だけじゃなくてさ。王都のいろんな場所に行ってみようと思って。まあ、君が良ければの話なんだけど」
「いろんな……場所?」
ロゼッタのぽかんとした反応を見て、エドガーは焦ったように付け加えた。
「あ、いや、いいんだよ。無理はしなくて。仕事の延長じゃないんだし……」
「是非ご一緒させてください!」
被せ気味で返事をしたロゼッタの声は、楽しげに弾んでいた。
「ありがとう。今まで君には仕事ばかりを押しつけてしまった。たまにはゆっくり足を休める時間も必要だからね」
「いえ。好きでやっていることですから、気にしないでください」
「そうはいかないよ。……夜も遅いし今日はもう帰ろうか」
「はい。すぐに片づけてきますね」
ロゼッタが古書を戻しに行くのを待って、エドガーは隠し部屋の扉に鍵をかけた。
「それじゃあ、おやすみ。ロゼッタ」
「おやすみなさい、エドガーさん」
エドガーと別れて自室に戻った途端、ロゼッタはふにゃりと緩んだ頬を両手で押さえた。じっとしていられなくて、部屋の中をぐるぐると歩き回る。
(エドガーさんとお出かけか。楽しみだな)
その夜、ロゼッタはベッドに潜り込んだあとも胸の高鳴りが収まらず、しばらく寝つくことができなかった。