国を追われましたが、文官令嬢としてセカンドライフを送ります!
第四章 魔導書の完成③
「ありがとうございました、エドガーさん。まさか、ルルー先生に直接お会いできるなんて……あの、私変なこと言ってませんでしたよね?」
夢のような時間を終え、互いに色紙を手にしたところで、ロゼッタは声を潜めてエドガーに尋ねた。あまりの幸福感に舞い上がり、ルルーと何を話したのか断片的にしか思い出せない。支離滅裂なことを口走らなかったか、今さらながら不安が込み上げてきたのだ。
「あんなにはしゃいでる君を見るのは初めてだったよ。まあ、でも心配いらないさ。ちゃんと想いは伝わってたよ」
エドガーがくすくすと、楽しげに喉を鳴らす。安心させるような、それでいてからかうような響きに、ロゼッタはほんのりと頬を赤く染めた。
「でも……今日は本当に、いい気分転換になりました。最近ずっと仕事詰めだったので、なんだかスッキリした気分です」
いつも翻訳と魔導書のことばかり考えていて、サイン会が開かれることさえ知らずにいた。久しぶりに自由な一日を満喫できたことも、そんな幸せをエドガーが与えてくれたことも、たまらなく嬉しい。
「それを聞いて安心した。君を見ていると、もっとその笑顔が見たくなる。……君が笑ってくれるなら、なんだってしてあげたいと思うんだ」
ふと、エドガーが遠くを見やるような眼差しになる。
「僕の家は代々王城に仕える家系なんだけど、父が早くに亡くなってね。一刻も早く跡を継げるようにと、それは厳しく育てられたんだ。自分で言うのもなんだけど、なまじ賢かった分、周囲の期待も大きかったから、友人を作る時間すら惜しんでただひたすら勉学に明け暮れていたんだ」
「…………」
初めて触れるエドガーの心の奥底に、ロゼッタは静かに耳を傾ける。
「その反動で、今はわりと自由にやってるけどね。だけど、君には好きなものを好きだと言える自由を持って、今日みたいに心から笑える時間を、ずっと大切にして欲しいと思う。……義務や期待だけで、自分の人生を満たして欲しくはないから」
「……はい」
こんなにも自分を案じてくれる人がいる。その純粋な温かさを噛み締めるように、ロゼッタは一言一言を胸に刻みながら頷いた。
「湿っぽい話はここまでにしようか。せっかく来たんだし、本でも読んで帰ろう。君に、ぜひ読んで欲しい一冊が……」
「あら。エドガー様。奇遇ですわね」
背後から響いたのは、上品で華やかな声だった。振り返ると、淡いラベンダー色のドレスを優雅に纏った女性が、エドガーへと歩み寄ってくるところだった。
「ご無沙汰しております、リーゼ様。お元気そうで何よりです」
エドガーが柔らかな笑みを女性に向ける。
「本当ですわ。エドガー様ったら、お誘いしてもさっぱり来てくださらないんですもの」
「いえ、なかなか仕事が忙しくて。近いうちに顔を出させていただきますよ。侯爵にもよろしくお伝えください」
「口ばっかりだもの。昔からずっと」
拗ねた口振りとは裏腹に、女性の顔には親愛の情が浮かんでいた。エドガーもまた、軽快な笑い声を上げる。
両者の間には、誰も入り込めない親密な空気が流れていた。
(ああ……)
苦い感情が胸をじわじわと侵食していく。ロゼッタは逃げるようにふたりから視線を逸らした。そうしなければ、彼女に対して、身勝手な怒りをぶつけてしまいそうだったから。
(私、あの人に嫉妬してるんだわ)
エドガーに特別扱いされたことで、どこかで浮かれていた自分がいた。けれど、彼が別の女性と親しげに笑うだけで、こんなにも心が波立ってしまう。
ブランドールの名を名乗ってはいても、今の自分はただの文官に過ぎない。彼が気にかけてくれるのは、誰に対しても等しく優しい人だから。
だから、決して期待なんてしてはいけない。
溢れ出しそうになる言葉を飲み込んで、たった今、自覚したばかりのこの想いに蓋をしなければならなかった。
初恋と失恋を同時に味わうなんて、そう滅多にない経験だろう。リーゼが「では、ごきげんよう」と優雅に去った後も、ロゼッタの心はしなびた草木のように生気を失ったままだった。
「さっきから元気がないみたいだけど、体調でも悪いのかい?」
心ここにあらずといった様子のロゼッタに、エドガーが顔を覗き込むようにして声をかける。
「あ、いえ。ちょっと疲れが出ちゃったみたいで」
「それなら今日はもう帰るとしようか。無理をして、明日の仕事に響いたら大変だ」
「……すみません、せっかくの機会なのに」
「謝らなくていいよ。君を連れ出したのは僕だからね」
いつもと変わらないエドガーの優しさが、今は小さな棘となって胸をちくちくと刺してくる。重い足取りで図書館を後にしたロゼッタは、のろのろと馬車に乗り込んだ。
座席には、先ほど雑貨屋やカフェで買った荷物が置かれていた。綺麗に並んだ紙袋が、楽しかった数時間前の記憶を呼び起こす。そのおかげで、ささくれ立っていた心が少しだけ凪いでいく。
(そうよ。こうして隣にいられるだけで十分に幸せだわ。この恋が叶わなくたっていい)
抗えない現実を「仕方ない」と受け入れることには慣れている。エドガーと時折言葉を交わしながら、ロゼッタは窓の外に広がるオレンジ色の夕空をどこか遠い目をして見つめていた。
日没が始まると、夜はあっという間に訪れる。王城の正門をくぐる頃には、辺りはしんとした薄闇に包まれていた。
「部屋まで運ぶよ。遠慮しなくていいのに」
「いいえ、これくらい自分で持てますから大丈夫です」
エドガーの申し出を丁寧に断り、ロゼッタは紙袋を抱えて廊下を歩き出した。
(一旦荷物を置いてから、ミラベルさんたちのところに行こう)
この時間なら、まだ製本作業の灯りがついているはずだ。小走りで廊下を急ぐロゼッタだが、渡り廊下から見えた夜の庭園の美しさに、思わず足を止めてしまう。
月明かりを浴びて、淡い輝きを帯びる白薔薇たち。静寂に閉ざされた幻想的な光景を眺めていると、重なり合う薔薇の奥から誰かが姿を現した。
「こんばんは、ロゼッタ様」
白い薔薇を数輪抱えたユーグが、軽く会釈をする。
(この人、本当にどこにでも現れるわね……)
その神出鬼没ぶりに半ば感心しながら、ロゼッタも丁寧に頭を下げる。そのまま立去ろうとすると、「少しよろしいでしょうか」と背後から呼び止められた。
「先ほど図書館で、エドガー様とお話をしていた女性についてですが」
遊んでいるように見えて、護衛としての役目は完璧に果たしていたようだ。彼がわざわざ口にするということは、やはりふたりは特別な間柄なのだろうか。ロゼッタの心臓が嫌な音を立てる。
「リーゼ様はエドガー様の従姉にあたる方です。単なる読書仲間というだけで、恋愛感情は微塵もございません。それどころか、現在は二児の母となり、すっかりお子様中心の生活を楽しまれているご様子です」
「……え?」
「ですから、どうぞご心配なく。……では、私はこれで」
最後に再び一礼して、ユーグが静かに去っていく。
「恋愛感情は、微塵もない……」
告げられたその事実に、ロゼッタは深く息を吐き出した。胸の中に渦巻いていたほの暗い感情が、ゆっくりと消えていく。
(あれ、ちょっと待って?)
これでは、自分の気持ちをすべて見透かされているも同然だ。ロゼッタは顔が火照るのを感じながら、暫くその場に立ち尽くしていた。
夢のような時間を終え、互いに色紙を手にしたところで、ロゼッタは声を潜めてエドガーに尋ねた。あまりの幸福感に舞い上がり、ルルーと何を話したのか断片的にしか思い出せない。支離滅裂なことを口走らなかったか、今さらながら不安が込み上げてきたのだ。
「あんなにはしゃいでる君を見るのは初めてだったよ。まあ、でも心配いらないさ。ちゃんと想いは伝わってたよ」
エドガーがくすくすと、楽しげに喉を鳴らす。安心させるような、それでいてからかうような響きに、ロゼッタはほんのりと頬を赤く染めた。
「でも……今日は本当に、いい気分転換になりました。最近ずっと仕事詰めだったので、なんだかスッキリした気分です」
いつも翻訳と魔導書のことばかり考えていて、サイン会が開かれることさえ知らずにいた。久しぶりに自由な一日を満喫できたことも、そんな幸せをエドガーが与えてくれたことも、たまらなく嬉しい。
「それを聞いて安心した。君を見ていると、もっとその笑顔が見たくなる。……君が笑ってくれるなら、なんだってしてあげたいと思うんだ」
ふと、エドガーが遠くを見やるような眼差しになる。
「僕の家は代々王城に仕える家系なんだけど、父が早くに亡くなってね。一刻も早く跡を継げるようにと、それは厳しく育てられたんだ。自分で言うのもなんだけど、なまじ賢かった分、周囲の期待も大きかったから、友人を作る時間すら惜しんでただひたすら勉学に明け暮れていたんだ」
「…………」
初めて触れるエドガーの心の奥底に、ロゼッタは静かに耳を傾ける。
「その反動で、今はわりと自由にやってるけどね。だけど、君には好きなものを好きだと言える自由を持って、今日みたいに心から笑える時間を、ずっと大切にして欲しいと思う。……義務や期待だけで、自分の人生を満たして欲しくはないから」
「……はい」
こんなにも自分を案じてくれる人がいる。その純粋な温かさを噛み締めるように、ロゼッタは一言一言を胸に刻みながら頷いた。
「湿っぽい話はここまでにしようか。せっかく来たんだし、本でも読んで帰ろう。君に、ぜひ読んで欲しい一冊が……」
「あら。エドガー様。奇遇ですわね」
背後から響いたのは、上品で華やかな声だった。振り返ると、淡いラベンダー色のドレスを優雅に纏った女性が、エドガーへと歩み寄ってくるところだった。
「ご無沙汰しております、リーゼ様。お元気そうで何よりです」
エドガーが柔らかな笑みを女性に向ける。
「本当ですわ。エドガー様ったら、お誘いしてもさっぱり来てくださらないんですもの」
「いえ、なかなか仕事が忙しくて。近いうちに顔を出させていただきますよ。侯爵にもよろしくお伝えください」
「口ばっかりだもの。昔からずっと」
拗ねた口振りとは裏腹に、女性の顔には親愛の情が浮かんでいた。エドガーもまた、軽快な笑い声を上げる。
両者の間には、誰も入り込めない親密な空気が流れていた。
(ああ……)
苦い感情が胸をじわじわと侵食していく。ロゼッタは逃げるようにふたりから視線を逸らした。そうしなければ、彼女に対して、身勝手な怒りをぶつけてしまいそうだったから。
(私、あの人に嫉妬してるんだわ)
エドガーに特別扱いされたことで、どこかで浮かれていた自分がいた。けれど、彼が別の女性と親しげに笑うだけで、こんなにも心が波立ってしまう。
ブランドールの名を名乗ってはいても、今の自分はただの文官に過ぎない。彼が気にかけてくれるのは、誰に対しても等しく優しい人だから。
だから、決して期待なんてしてはいけない。
溢れ出しそうになる言葉を飲み込んで、たった今、自覚したばかりのこの想いに蓋をしなければならなかった。
初恋と失恋を同時に味わうなんて、そう滅多にない経験だろう。リーゼが「では、ごきげんよう」と優雅に去った後も、ロゼッタの心はしなびた草木のように生気を失ったままだった。
「さっきから元気がないみたいだけど、体調でも悪いのかい?」
心ここにあらずといった様子のロゼッタに、エドガーが顔を覗き込むようにして声をかける。
「あ、いえ。ちょっと疲れが出ちゃったみたいで」
「それなら今日はもう帰るとしようか。無理をして、明日の仕事に響いたら大変だ」
「……すみません、せっかくの機会なのに」
「謝らなくていいよ。君を連れ出したのは僕だからね」
いつもと変わらないエドガーの優しさが、今は小さな棘となって胸をちくちくと刺してくる。重い足取りで図書館を後にしたロゼッタは、のろのろと馬車に乗り込んだ。
座席には、先ほど雑貨屋やカフェで買った荷物が置かれていた。綺麗に並んだ紙袋が、楽しかった数時間前の記憶を呼び起こす。そのおかげで、ささくれ立っていた心が少しだけ凪いでいく。
(そうよ。こうして隣にいられるだけで十分に幸せだわ。この恋が叶わなくたっていい)
抗えない現実を「仕方ない」と受け入れることには慣れている。エドガーと時折言葉を交わしながら、ロゼッタは窓の外に広がるオレンジ色の夕空をどこか遠い目をして見つめていた。
日没が始まると、夜はあっという間に訪れる。王城の正門をくぐる頃には、辺りはしんとした薄闇に包まれていた。
「部屋まで運ぶよ。遠慮しなくていいのに」
「いいえ、これくらい自分で持てますから大丈夫です」
エドガーの申し出を丁寧に断り、ロゼッタは紙袋を抱えて廊下を歩き出した。
(一旦荷物を置いてから、ミラベルさんたちのところに行こう)
この時間なら、まだ製本作業の灯りがついているはずだ。小走りで廊下を急ぐロゼッタだが、渡り廊下から見えた夜の庭園の美しさに、思わず足を止めてしまう。
月明かりを浴びて、淡い輝きを帯びる白薔薇たち。静寂に閉ざされた幻想的な光景を眺めていると、重なり合う薔薇の奥から誰かが姿を現した。
「こんばんは、ロゼッタ様」
白い薔薇を数輪抱えたユーグが、軽く会釈をする。
(この人、本当にどこにでも現れるわね……)
その神出鬼没ぶりに半ば感心しながら、ロゼッタも丁寧に頭を下げる。そのまま立去ろうとすると、「少しよろしいでしょうか」と背後から呼び止められた。
「先ほど図書館で、エドガー様とお話をしていた女性についてですが」
遊んでいるように見えて、護衛としての役目は完璧に果たしていたようだ。彼がわざわざ口にするということは、やはりふたりは特別な間柄なのだろうか。ロゼッタの心臓が嫌な音を立てる。
「リーゼ様はエドガー様の従姉にあたる方です。単なる読書仲間というだけで、恋愛感情は微塵もございません。それどころか、現在は二児の母となり、すっかりお子様中心の生活を楽しまれているご様子です」
「……え?」
「ですから、どうぞご心配なく。……では、私はこれで」
最後に再び一礼して、ユーグが静かに去っていく。
「恋愛感情は、微塵もない……」
告げられたその事実に、ロゼッタは深く息を吐き出した。胸の中に渦巻いていたほの暗い感情が、ゆっくりと消えていく。
(あれ、ちょっと待って?)
これでは、自分の気持ちをすべて見透かされているも同然だ。ロゼッタは顔が火照るのを感じながら、暫くその場に立ち尽くしていた。