10年越しの溺愛——御曹司は私を逃さない
第9話:黒崎社長は、私を逃がさない
朝、いつも通りパソコンに向かっていたとき、内線が鳴った。手を止めて受話器を取る。
「はい、経理部の白石です」
『……白石、井口だけど』
一瞬だけ呼吸が止まる。久しぶりに聞く声。あの日以来、まともに話していない。
「どうしたの?」
できるだけ普段通りに返すと、少しだけ間があった。
『悪い、今ちょっといいか。営業フロア来てほしい』
「営業?なんで——」
『いいから。頼む』
それだけ言って、電話は切れた。強引で、一方的すぎる。少し考えてから、最近井口が担当した契約の資料を持って立ち上がった。断る理由もないし、何より“仕事”と言われれば行かないわけにもいかない。
エレベーターで営業フロアへ向かう間、無意識にさっきの声を反芻してしまう。
扉が開いた瞬間、空気が変わった。人の多さとざわめき、電話の音、慌ただしい足音。その中で、井口はすぐに見つかった。
「白石」
声をかけられて振り向くと、どこか疲れた顔で立っている。
「これ」
渡された資料を見た瞬間、嫌な予感が確信に変わる。契約書の最終条件と、請求処理に回っている金額が食い違っている。
「……これ、もう先方に出してるの?」
聞くと、井口は小さく舌打ちした。
「ああ。で、今揉めてる」
ちょうどそのタイミングでデスクの電話が鳴り、井口が受話器を取る。
「はい……いや、それは……」
明らかに押されている。視線が一瞬こちらに向いて、ほんの少しだけ迷うような色が浮かんだ。
「代わるね」
手を伸ばすと、井口は一瞬だけ躊躇してから受話器を渡してきた。その指先が触れそうになって、わずかに距離を取る自分に気づく。