浮気相手の子を「育てろ」と押しつけられたので、罪のない少女は丁重に育てつつ、夫だけを優雅に制裁することにしました

紳士たちの夜 ~ある夜の、彼女の知らない出来事~

 その夜のことを、エレオノーラは長く知らずにいた。
 だから、これはまだ、誰の一人称にも属さない、薄暗い紳士サロンの片隅の話である。



 暖炉の火が葉巻の煙を琥珀色に染めていた。
 ジェラルド子爵はその夜、ひとりだった。家に居場所をなくした男が逃げ込む先は、いつも決まってこういう場所だ。
 参加できるのは貴族か、平民でも富裕層のみ。この中だけは無礼講とされ、身分の差も一時忘れて、序列には上も下もない。

 向かいの長椅子に見知らぬ紳士が腰を下ろしたのは、夜も更けてからだった。
 穏やかな目をした学者然とした男だ。グラスを軽く掲げ、ジェラルドへ会釈する。

「アルヴィスと申します。お隣、よろしいかな」
「……ジェラルドだ。子爵の」

 幸いだったのは、ジェラルドが彼を知らなかったことだろう。妻が恋人を持ったことは知っていたが、エレオノーラは相手の名前や素性を夫には話さなかったので。

 二人はしばらく他愛のない話をした。葉巻の銘柄、近頃の天候、退屈な議会の噂など。
 アルヴィスは聞き上手だった。ジェラルドはいつしか、家では決して吐けない弱音を、煙と一緒に零し始めていた。

「妻にな……家の中で、相手にされんのだ」

 アルヴィスはグラスを傾けたまま、静かに先を促した。

「いや、わたしが悪いのだ。それは、わかっている。……若い頃、結婚する前から、ずっと想っていた女がいてな。今の妻との結婚の前にちゃんと別れたはずだったが……子供ができてたんだ。愚かな話だ」
「……その方とは円満なお別れだったのですか」
「振られたよ。生活費を支援してたんだが、気づいたら夜逃げされた後だった」

 ジェラルドは自嘲するように笑った。

「妻と結婚する何年か前だ。突然、ぷつりと姿を消した。理由も告げずに。薄情な女だと、長いこと恨んでいた」

 彼はグラスの中身をぐいと呷った。

「最近になって、知ったのだ。あの女は病に侵されていた。没落した家の娘が平民に混ざって必死に暮らす中で。そしてもう、亡くなっていた。子供だけが孤児院に遺されていた。……わたしは、何も知らずに、十年近くも」

 アルヴィスの指が、グラスの脚を掴む寸前、一瞬だけ止まった。けれどジェラルドはその仕草に気づかない。

「だから、せめてと思って、その子を引き取った。家の嫡子にすると言ってな。罪滅ぼしのつもりだった。……だが、やり方を間違えた。妻に何の相談もなく、いきなり子供を育てろと言ってしまったんだ。妻は実家が太いのをすっかり忘れてた。今では家の中で、わたしひとりが余所者だ」

 長い沈黙が落ちた。
 アルヴィスは葉巻の灰を、静かに灰皿へ落とした。
 彼は最初から、目の前の男が誰の夫であるかを知っていた。学生時代からの恋人で、添い遂げることが叶わなかった、美しき伯爵令嬢エレオノーラの夫だと。
 けれど、それを告げる気はなかった。

 ただ、言葉を選んで、これだけは知りたかったことを口にした。

「子爵。差し出がましいことを、申し上げてもよろしいか」
「……なんだ」
「あなたがたは、……奥方とあなたは、結婚する前に、腹を割って話し合うべきだったのですよ」

 アルヴィスの声は責める響きを持たなかった。ただ、深く、惜しむような色だけがあった。

「こんなにもこじれてしまう前に。互いに、想う相手がいたのなら、なおさら。隠し合い、欺き合うのではなく、最初にすべてを卓上に並べていれば。……お互いにとって、もっと良い道があったかもしれない」

 ジェラルドはその言葉を、酔った頭ではうまく咀嚼できなかったようだった。
 それでもぼんやりと、「そうかもしれんな」と呟いた。

 アルヴィスはそれ以上は何も言わず、グラスを置いて立ち上がった。

 彼自身もまた、高位貴族の庶子だった。
 父の家では決して嫡子になれず、日陰で使用人たちの中で育った男だ。
 母親が平民だったせいで、父の家が余らせていた爵位も貰えなかった。……父の正妻が認めなかったのだ。
 それでも今、貴族社会の末席にいて、たまにこんなサロンにも来れるのは、学者として成果が学会に認められて、国から男爵位を賜ったからに過ぎない。

 だからこそ、孤児院から引き取られた少女リーゼの境遇が、他人事ではなかった。
 エレオノーラが、庶子という一点だけでリーゼを忌まなかったのも、……その隣にかつて、己の生まれに苦悩するアルヴィスという存在があったからだ。

 扉の前で、アルヴィスは一度だけ振り返った。
 紫煙の向こうで、ひとりグラスを抱えて項垂れる子爵の背中を見た。
 アルヴィスからエレオノーラを奪って、夫の座を得た唯一の男。
 だが憎むには、あまりに小さく惨めな背中だった。

「お幸せに、子爵」

 その別れの言葉が、皮肉なのか、それとも本心からの憐れみなのか。

 アルヴィス自身にも、そしてしばらくこの夜を知らずにいたエレオノーラにも、ついに、わからずじまいだった。



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