定刻の鐘と、ケーキと、王太子と~前世は検察事務官。断罪を止めたら、恋人役のはずが本物の婚約者になりました~

第三十話 ひとつのケーキが、ふたつになった日

 王宮書記官のミルフィ・ベルラン——
 もうすぐミルフィ・フォン・エルムローゼ妃になる予定の私は、今日もいつも通り、定時の鐘を聞いて帰宅した。

 正確には、帰宅する前にパティスリー・ルルンへ寄った。
 今日は少し特別な日だったので、ケーキを二つ買った。

「今日は二つですか?」
「はい。今日は二つの気分で」
「何かあったんですか?」
「……少し、嬉しいことがあって」
「まあ、それは良かったですね」

 ルルンさんがにっこり笑って、丁寧に二つ包んでくれた。
 王宮に戻り、テーブルの上に包みを広げる。
 今日買ったのは、苺のショートケーキと、新作のキャラメルムースだ。

 ショートケーキは私の定番。
 キャラメルムースは、殿下が先週「これが美味しかった」と言っていたので、試してみようと思った。

 まず、苺のショートケーキを一口。

 ふわふわの生地。甘いクリーム。酸味のある苺。
 ……美味しい。
 やっぱり、ルルンさんのケーキは美味しい。

 次にキャラメルムース。
 ……なるほど、これは確かに美味しい。
 濃厚なキャラメルの風味の中に、かすかな塩味がある。後味がすっきりしていた。

 リシャールの好みが、少しわかる気がした。
 甘すぎないもの。けれど奥行きのある味。
 明日、これが良かったと報告しよう。
 そんなことを考えながら食べるケーキは、前より少しだけ特別だった。

 窓の外では、秋の夜風が吹いていた。

 明日も定時に帰れるといい。
 明日もケーキが美味しいといい。
 明日も、リシャールが笑っているといい。

 私の望みは、ずっとそれだけだ。
 小さくて、平凡で、でも確かな毎日。
 それが私の幸せだった。
 前世でも、今世でも、私はただそれだけを望んでいた。

 そして、それが今ここにある。
 ケーキの甘さが、口の中でゆっくり溶けていく。
 静かな夜と、明日の約束と、一緒に。

 王宮書記官のミルフィ・ベルラン。
 定時退勤と毎日のケーキだけが、人生の目標だった私。

 そんなある日、前世の記憶がよみがえった。
 検察事務官として書類と向き合ってきた記憶。
 理不尽な浮気と、理不尽な死の記憶。

 その記憶が引き金となって、公爵令嬢の断罪を止めた。
 一人の書記官の『我慢できなかった』その一言が、やがて宰相の不正を暴き、王子の策略を阻止して——

 気がつけば、『ひとつのケーキ』は、『ふたつのケーキ』になっていた。
 それだけの変化なのに、きっと私の人生は、もう前とは、まるで違う場所まで来ていたのだ。
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