あの日、青い海に君を置いてきた~「大丈夫」の先で君を失った。だから私は、今日も止める~
1章
1話 離れた手
波が高かった。
有名な浮世絵のように、見上げるように大きい白波が端から砕けていく。
四月の海水は、瀬戸内海といえどもまだ冷たい。
アンナは航平先輩とふたり、海の中に投げ出されいた。
頭からまた波をかぶる。
仲間のヨットは、もうすっかり見えなくなっていた。
「げほっ、げほっ……!」
口に入った海水にむせた。
塩辛い。
苦しい。
息を吸おうとした時、次の波を頭からかぶる。
時々、意識が遠のきそうになる。
そのたびに、航平先輩がわたしの手を強く引いた。
「アンナ! しっかりしろ!」
「……はい」
返事をしたつもりだった。
でも、自分の声さえ聞こえない。
暴風。
高波。
速い潮流。
轟音《ごうおん》が鳴る。
このまま海の藻屑になって、わたしたちふたりは消えてしまうのだろう。
そんなことを思った。
ふたり乗りヨットが転覆し、その艇から離れた。
どれほど流されたのだろう。
もうわたしたちのヨットは見えない。
360度、陸も見えない。
広い海原に流されて、生きて戻れるはずがない。
……死ぬんだ。
わたし、
大好きな航平先輩と一緒に。
そのときだった。
トトトト、トトトト――。
何か、小さな音がする。
波の音だろうか。
ううん、違う。
規則正しい。
エンジンの音だ。
航平先輩が顔を上げた。
「アンナ、見ろ」
「え……?」
「……嘘だろ」
先輩が目を見開いた。
そして、かすかに笑った。
「神だ」
西の方角から、何かが近づいてくる。
波の頂点で姿を現し、次の瞬間には見えなくなる。
やがて、また現れる。
「船だ」
「漁船……?!」
大きなうねりにもてあそばれ、海面へ叩きつけられながら、それでもこちらへ近づいてくる。
助かるかもしれない。
航平先輩は、ずっとわたしの手を強く握っていた。
大きな波が来る。
二人とも海中へ沈んだ。
ゴボゴボと水の音がする。
次の瞬間、ライフジャケットの浮力で海面へ押し戻された。
「ぷはっ!」
息を吸う。
先輩も顔を出した。
そして、わたしを見た。
笑った。
こんな状況なのに。
いつもの航平先輩みたいだ。
どんなときも諦めない、いつもの強い先輩。
「アンナ。先に乗れ」
漁船から浮き輪が投げられた。
「おーい、つかまれー!」
漁師の声がする。
わたしは手を伸ばした。
手は、届かなかった。
波が浮き輪をさらっていく。
「もう一回投げるぞ!」
再び浮き輪が飛んできた。
わたしは片腕で必死につかんだ。
「先輩!」
航平先輩を見る。
「助かるかも」
先輩は、大きくうなずいた。
安心したように笑った。
そして――。
目を閉じた。
え?
強く握られていたはずの指から、力が抜けていく。
一本。
また一本。
先輩の指が、わたしの手から離れていく。
「先輩?」
わたしは手を伸ばした。
「待って!」
つかまなきゃ。
先輩をつかまなきゃ。
浮き輪は漁船に引き寄せられる。
先輩が少しずつ離れていく。
大きな波にもまれた漁船が高く持ち上がった。
そして――。
バシャーン!
海面へ落ちた。
ロープが強く引かれた。
浮き輪ごと、わたしの体が漁船へ手繰り寄せられていく。
「待って! 先輩が!」
航平先輩の体が離れた。
ゆっくりと。
潮に流されていく。
「うそ……」
オレンジ色のライフジャケットが遠ざかる。
「行かないで!」
叫んだ。
「航平先輩!」
漁船の船べりから、日に焼けた男たちが手を伸ばしてきた。
「つかまれ!」
「すみません!」
わたしは先輩を指さした。
「あのオレンジ色のライフジャケット! 先輩なんです!」
波に隠れる。
また見える。
見失わないように、わたしは必死に目を凝らした。
「おい、しっかり船に上がれ!」
漁師が叫ぶ。
「もっとがんばれ! お前を助けたら、もう一人も助けるから!」
がんばりたい。
でも、手にも足にも力が入らない。
自分の体なのに、まったく言うことをきかなかった。
「ほら!」
誰かがわたしのライフジャケットをつかんだ。
そのまま持ち上げられる。
体が船べりにぶつかった。
「痛っ!」
次の瞬間、わたしは甲板に転がり込んだ。
「先輩!」
すぐに起き上がろうとした。
でも、できなかった。
体に力が入らない。
それでも顔だけを上げて、東へ流されていく航平先輩を目で追った。
そのときだった。
海の中に、白く滑らかな物体が見えた。
一頭。
また一頭。
「ありゃなんだ? ……スナメリか?」
クジラの仲間、スナメリのようだった。
白波の間から顔を出し、また海へ潜る。
その一頭が、航平先輩の近くを泳いでいる。
まるで寄り添うように。
……神様。
お願い。
わたしの航平先輩を救って。
漁船のエンジン音が大きくなった。
見れば、この船には二人の漁師が乗っていた。
二人とも顔も腕も赤く日焼けしている。
髪は潮に焼けて、金色がかって見えた。
二人は荒れる海の上で、巧みに漁船を操る。
船首を東へ向けた。
航平先輩を追ってくれる。
「お願いします!」
わたしはもう一度叫んだ。
「お願いします!」
そのとき、一人の漁師が後方を見て大声を上げた。
「くるぞ!」
もう一人も叫ぶ。
「くるぞ、くるぞ!」
何が?
わたしは前を見た。
息をのんだ。
これまで見たこともないほど大きな波が、目の前に迫っていた。
漁師たちが身構える。
「つかまれ!」