あの日、青い海に君を置いてきた~「大丈夫」の先で君を失った。だから私は、今日も止める~

5 アンナの体験談


トモエたちのはしゃぐ声が聞こえなくなった。

ヒカルはこぶしを握って震えている。
「ボクって変なやつなんでしょ。
 生きていても、つらい未来しか見えない。

 迷惑かけているんだよね、ボクは。
 ……生きているだけで迷惑かけてしまうんだ。
 死んだほうがまし」

ナオが心配そうに出てきた。
「わたしもそう……死んだ方がましって思う」

「待って待って待って、あなたたち。
 亡くなった人を見たことがあるの?
 その親がどんなふうに泣くか、見たことあるの?」

「親を泣かせないために生きろというの?
 ボクは今、この人生をやめたいんだ」
ナオが下を向く。

アンナは、唇をきゅっと引いた。そして、ゆっくり話した。
「しかたない……恋って知ってる?」
「恋?」
「わたしの報われなかった恋の話をするね。長くなるけどいい?」

ヒカルはソファーに座った。
「いいよ、どうせすることはなにもないんだし。
どうせ教室には行けないし、
学校に来てもやることもなくて暇だなぁって思ってる
……それも悩み。
なんでもいいから、話してよ。アンナ先生」



「 わかった。

――平成三年
わたしは十八歳、大学一年生だった。

大学のクラスは、不思議なくらい居心地がよかった。
大声で騒ぐ人がいない。
仲良しだけで固まって、ほかの人を寄せつけない人もいない。
知らない人にも気遣いがあったの。

ナオは顔を上げた
「すっごくいい! 大声で騒ぐ人がいないっていい」
そして、ヒカルを思いやるように、膝の上にクッションをのせてやった。



◇◇◇ アンナひとり語り

わたしが入ったのは中学の社会科の教師になるクラスだった。
でも、心の中では養護教諭になりたいという秘密の決意があった。

四月が終わり、五月になった。
そのころ、わたしは少し焦っていた。

理由は、はっきりしていた。
受験生のころは毎日やるべきことがあった。
だけど、大学へ入った途端、急に自由になったから。

授業を終えたら、何をしてもいい。
なんなら、何もしなくてもいい。
その自由が、逆に落ち着かなかった。

――わたしも何かしたい。
同じ高校でバンドを組んでいたハナちゃんは、混声合唱団へ入った。

ありさちゃんはアルバイトを始め、会うたびにおしゃれになっていった。
わたしは、まだ何も決めていなかった。

そんなある日。
大学構内で、一枚の立て看板が目に入った。

体育会ヨット部
足が止まった。
ヨット?

山の中で育ったわたしには、まるで見知らぬ世界だった。
掲示されていた写真を見た。

海。
白い帆。
たくさんの笑顔。
なんだか、ものすごく素敵に思えた。

でも、スポーツ未経験で人見知りの私だ。
多分無理だな…そう思って、立ち去ろうとした時だった。

ドン!
誰かにぶつかった。
相手の持っていた大量のチラシがばらまかれてしまった。

「あ、ごめんなさい」
わたしは慌てて拾い集めた。
そこに立っていたのは背の高い人だった。


真っ黒に、日焼けした太い腕が目の前にあった。
白いTシャツの袖を肩までまくり上げているのだ。

見上げると、相手はびっくりした顔でフリーズしていた。
「あっ、あっ」
とその人は口をぱくぱくさせ、「はい」と差し出したチラシを「あ、ああ」と受け取った。

こんな漫画みたいなやり取りがあった後、
横から、小麦色に日焼けした女性が顔をだした。

「ねえ、あなた。1年生? 試乗会に来ませんか?」
「ヨットに乗れますよ」
「いえ、わたしは……」

振り返った。
彼の顔は、今度は笑顔だった。
半袖からのぞく、太い腕。
引き締まった体。
一枚のちらしを手渡された。

それが、二年生の航平先輩との出会いだった。


     ◇◇◇

五月の連休。

チラシに書かれた集合場所へ行った。
大学の駐車場には、たくさんの新入生が集まっていた。

「一年生はこちらに名前を書いてくださーい!」
乗車する車を指定され、女子三人グループで指定された車に乗った。
後から来た運転手は、航平先輩だった。

車内には気持ちの良い音楽が流れていた。

「名前を教えてくれますか?」

「上利麗子《あがりれいこ》です。
今日は楽しみにしていました」

「川田美咲です。
高校ではバスケをしていました」

「君は?」
「ええっと、……安川アンナです。……です」
そう、わたしは人見知りだ。

麗子と美咲が、ヨット部のことをいろいろ聞いていた。
航平先輩は、「大変だけど、すごく成長できるんだ」
ということを繰り返していた。
麗子と美咲がいるおかげで会話がはずみ、楽しい気持ちになった。
このふたりは、一生付き合ういい友達になる。

やがて車が止まる。
そこは、ヨット部の艇庫《ていこ》だった。

車を降りた瞬間、
潮の匂いがした。

目の前には、
青い海。
頬をなでる風。
そして海の上を走る、真っ白な帆。

「うわあ……」
思わず声が出た。
「あれに乗ってみない?」
航平先輩が笑った。

広い海が広がっている。
そして、ヨット部のヨットが海を走っている。

さわやかな風。
白い雲がちぎれて流れる。

その前に立ち、微笑むのは、
――航平先輩。

日焼けした顔、太い腕。
この世界の魅力の完成形だった。

美しい。
わたしの心はわしづかみにされた。

麗子と美咲ははしゃいでいる。
「うわああ、素敵!」
「海っていいですね。ヨットってキレイ」

わたしはそんな言葉では言い尽くせないトキメキを感じていた。
この海で愛を叫びたい衝動に駆られていたと言ってもよい。
「航平先輩! 好きです!」
人見知りなので、絶対に言えないけど。


それから、艇庫に入った。
1年生のメンバーで交流した。
航平先輩は言った。
「入部したら同期になる。
濃い付き合いになるぞ」

わたしたちは自己紹介をした。
出身地や高校時代の部活などを話した。

わたしは、みんなの話を興味深く聞いた。

麗子は、古い家系図があるという本物のお嬢様らしい。
人の心をつかむ会話ができる。

美咲は、都会育ち。
頭がよくて、スポーツ経験者。
笑顔がまぶしい女の子だった。

一年男子もたくさんいた。
山本くん。
木場くん。
三橋くん。
渡くん。
小村くん。
川崎くん。

その時は、まだそれぞれが猫をかぶっていたけれど、
個性輝く楽しいメンバーだ。

航平先輩が写真を見せながら、先輩たちの紹介をしてくれた。

二年生の先輩も八名いた。
男性、女性ともには四名ずつ。
この時は海に出ていたり、陸当番として食事を作ったりしていた。
女子の先輩はこの時、桜田先輩、湯口先輩がいた。

三年生は、七名いた。すごく貫禄があった。
主将は前田先輩。
でも、三年になると授業が忙しくなるようだ。
教育学部は教育実習もある。
したがって、トレーニングを仕切るトレーナーは、
経済学部の航平先輩がやっているらしい。

四年生は、一応引退している。
しかし、レース練習のために合宿には来る人もいるという。
元主将の泉先輩など。

この時のわたしには、
みんな、「新しく出会った人」だった。
誰と仲良くなるのか。
誰と生涯の友となるのか。
「何一つ決まっていない未来」が私の前に無限に広がっていた。
航平先輩は特別で、ついつい見てしまった。


陸《おか》当番の作ってくれたカレーを食べて、
午後は陸揚げされたヨットに触れた。
ヨットの前で写真を撮った。

「乗りたい人は乗ってもいいぞ」
何人かが水際に浮かんだヨットに乗り込んでいた。
「すげえな」
「これで海を走るんですね」
何人かはすぐに入部を決めたようだった。

桜田先輩が、耳元でささやいた。
「航平がアンナさんのこと、気になっているみたい。
あなたが入部したら、めちゃ喜ぶよ。
まあ、顔には出さない性格だけどね」

わたしは、入部を決めた!

     ◇◇◇

――現在・保健室

「それで、ヨット部に入ったんだ」
ナオの声で、アンナ先生は現在へ戻ってきた。

「そうよ」
アンナは壁の写真に指で触れて答えた。

ナオも写真を見る。
青い海。
白いヨット。
青空。

「きれいだね」
「でしょ?」

アンナ先生は、ほんの少し笑った。

「本当に、きれいだった」
でも、その笑顔はどこか寂しかった。

「山深い地域で生まれ育ったわたしには、海がものすごくまぶしく見えたの。
そして、航平先輩が素敵に見えて仕方なかった」

ヒカルがつぶやく。
「ボクは未来が怖いよ」

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