子午線の下で―私の時間を見つける物語―

第七章 きっかけの場所

 次の日の夜も、柚月はノートに星を書き留めてから眠った。
 窓の外には、まだいくつかの星が残っている。
 布団に入る前、もう一度カーテンを少し開けた。
 さっきまで見ていた星の場所を、無意識に探す。
 けれど、夜はもう終わりかけていた。
 柚月はカーテンを閉める。
 星は見えなくても、そこにある。
 そんなことを思いながら眠りについた。

           ☆

 翌朝、柚月はいつもより少し早く目を覚ました。

 縁側に出ると、春の空気が庭をゆっくり通り抜けていく。
 夜の空とは、まったく違う色だった。
 昼の空には、星は見えない。

 それでも、昨夜見上げた星の場所を、柚月はなんとなく思い出せる。
 木星は、あのあたり。
 アークトゥルスは、もう少し東。
 昼の空を見ながら、そんなことを考える自分に気づいて、少しだけ笑った。
「……行ってみようか」
 思いつきだった。
 でも、その言葉は、すっと胸に収まった。
 天文科学館へ向かう道は、もう何度か歩いている。
 潮の匂いが、駅のあたりまで流れてくる。
 空は高く、明るかった。

           ☆

 館内は、平日の昼らしい静けさだった。
 展示室を一周し、ベンチに腰掛ける。
 ここに来ると、時間の流れが少し変わる。
 急ぐ必要がない。
 立ち止まってもいい。
 それだけで、気持ちが少し軽くなる。
 ロビーで、星野さんの姿を見つけた。
 書類を抱えて、足早に通り過ぎようとしている。
「星野さん」
 声をかけると、足を止めて振り返った。
「あ、柚月さん」
 いつもの調子だった。
 説明をしているときとも、仕事の顔とも少し違う。
「このあと、少し時間ありますか?」
 問いかけは、さりげなかった。
「はい」
 理由を聞かれる前提ではない。
 二人で、展示室の端へ移動する。
 人の少ない場所だった。
「今度の観望会なんですが」
 星野さんは、そう切り出した。
「来館者が少し多くなりそうで。
 解説の前後に、対応する人が足りないかもしれなくて」
 “人手が足りない”とは言わない。
 ただ、状況を話している。

「そこで……もしよければ、少し手伝ってみませんか?」
 声の調子は変わらない。
 頼む、というより、選択肢を置いた感じだった。
 柚月は、すぐには答えなかった。
 断ろうと思えば、断れる。
 責任も、義務もない。
 でも、不思議と緊張はなかった。
「何を、すればいいですか?」
 先に出たのは、その言葉だった。
 星野さんは、少しだけ目を細めた。
「難しいことは何もありません。来た人を案内したり、終わったあとに声をかけたり」
「星の説明は?」
「それは、まだです」

 はっきりと言った。

「無理にやらなくていいです。できることだけで」
 柚月は頷いた。

 それで十分だった。

「……やってみます」

 決意というほどの重さはない。
 でも、逃げ道も残した返事だった。
「ありがとうございます」
 星野さんはすぐにそう言って、それ以上は何も足さなかった。
 条件も、期待も、未来の話もない。
 ただ、今ここで、同じ場所に立つ。
 それだけだった。

           ☆

 帰り道、柚月は子午線の上を歩いた。
 意識してそうしたわけではない。
 気づいたら、足が向いていた。
 星を見る人。
 星を記録する人。
 星を伝える場所に、少しだけ関わる人。
 まだ、名前のない立場。
 でも、不安はなかった。
 夜、庭に出て、空を見上げる。
 星は、変わらずそこにある。
 柚月はノートを開いた。
 新しいページに、一行だけ書く。

 ・観望会を、手伝うことになった。

 それは予定であり、同時に、もう始まっていることだった。
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