子午線の下で―私の時間を見つける物語―

第八章 裏側の星空

 観望会当日、柚月は少し早めに天文科学館へ向かった。

 いつもと同じ道なのに、足取りがわずかに違う。
 急いでいるわけではない。
 でも、遅れたくはなかった。

 受付横の控えスペースで、星野さんと合流する。

「今日は、ありがとうございます」

「いえ……」

 言いかけて、言葉を飲み込む。
 客として来たわけではない。

「じゃあ、流れだけ簡単に」

 星野さんは、淡々と説明した。
 受付での案内。
 屋上への誘導。
 終わったあとの声かけ。

 難しいことは、一つもない。

「分からなかったら、無理しなくていいです」

 その言葉に、柚月は頷いた。

 観望会が始まると、館内の空気が一気に変わった。
 昼間よりも、人の声が近い。

「こちらでお待ちください」

「足元、気をつけてくださいね」

 声を出すたびに、少しだけ緊張する。
 でも、不思議と嫌ではなかった。

 屋上では、星野さんが解説を始めていた。
 柚月は、少し離れた位置で、その様子を見ていた。

 星を見せる声。
 人の反応。
 驚きや、歓声。

 これまで、全部“見る側”だったものを、
 今は、支える側として見ている。
 望遠鏡の順番を待つ子どもに声をかける。
「もうすぐですよ」

 その子が、こくんと頷いた。

 それだけのやり取りなのに、
 胸の奥が、少しだけ温かくなる。
観望会は、滞りなく進んだ。
 大きなトラブルもない。

 気づけば、空には星が増えていた。

観望会の終盤、屋上には少しだけ余裕が生まれていた。
 順番待ちの列も短くなり、子どもたちは柵にもたれて空を見上げている。
 柚月は、手持ち無沙汰の時間に、いつものノートを開いた。
 今日の空。
 月はやや高く、木星は少し西寄り。
 屋上の明かりがあるから、庭よりは見えにくい。
 そう思いながら、ページに書き込む。
 ・観望会
 ・月、クレーターくっきり
 ・木星、衛星四つ確認
 ・風が少し強い
「なに書いてるの?」
 声がして、顔を上げる。
 小学校低学年くらいの男の子だった。
 さっきまで望遠鏡を覗いていた子だ。
「星の記録だよ」
「記録?」
 柚月はノートを少し傾けて見せる。
「今日、何が見えたかとか。何時くらいに見たとか」
 男の子は、じっとページを見つめた。
「それ、宿題?」
「ううん。自分用」
「なんで?」
 少し考えてから、答える。
「忘れたくないから」
 男の子はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「ぼくもやる」
「うん?」
「今日、木星見たって書く」
 真剣な顔だった。
「いいね」
 柚月は笑った。
「何時に見たかも書くと、あとで楽しいよ」
 男の子は何度も頷き、母親のもとへ走っていった。
「ノートある? 星のノート!」
 その声が、夜風に乗って届く。
 柚月は、空を見上げた。
 星は、変わらずそこにあった。
 でも、今夜はその下にいる人たちの方が、少し違って見えた。
 自分のノートは、自分のためのものだ。
 けれど、それを見た誰かが、空を見上げるきっかけになるなら。
 それも、悪くない。
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