悪魔の娘が帰還するまでーささやかな復讐と聖女の称号を添えてー

第十ニ章:涙

 海沿いの小道は、まだ朝の霧が薄く残り、ひんやりと湿っていた。

 波打ち際では、数人の村人たちが作業をしていた。網を干す老漁師、魚籠を抱えた少女、壊れた柵を直す青年。

 その誰もが、どこか影を宿しているように見えた。

(……この村……何かがおかしい)

 別荘の周辺には、かつて王家が療養のために利用した集落がある。
 今でも別荘がある以上、王家が利用する可能性がある土地なのだから、本来は整えられていて当然だが、今、その面影はどこにもない。
どの家にも傷んだ屋根と潮風で曇った窓が並び、人々の顔には活気がなかった。

 シャーロットが小さく呟く。

「……この辺りでは、近年、怪我や病気が妙に増えているそうです。特に子どもが……。医者も原因が特定できないまま、対症療法の薬が処方されているのみとか……」

 その言葉を聞いた瞬間、オリヴィアの心にざわりと波が立った。

(子どもが、苦しんでる?)

 魔界で暮らした年月。弟妹たちの涙と震えが、鮮やかに蘇る。
(……助けに来るのが、善人じゃなくて悪いわね。)
 その夜オリヴィアは、こっそり細工して作った、悪魔の気配絶ちローブをまとい、密かに屋敷を抜け出した。

◇◇◇
 その夜、空には月も星もなかった。
(もう、ずっとそうね……。)
人間界にいるのに、こちらの方が魔界のような、異様な不気味さを感じる。

 漁村の路地。石畳の隙間に苔が生え、潮の匂いと腐った木材の臭いが混じっていた。

 戸口の前にしゃがみ込んでいたのは、小さな男の子だった。まだ五歳にもならないような幼さ。足元には割れた靴、腕には赤く腫れた痕。
(親に叩かれたの……?)

「……どうしたの?」

 オリヴィアが横にしゃがみ込むと、少年はびくりと肩をすくめた。彼女が微笑むと、その目が涙で滲む。

「おなか……いたいの」
「名前は?」

「ラ、ライル……」

 彼の母は流行り病で寝込んでおり、父は海に出たまま戻らず、祖父母はもういないという。
 腹痛に耐えられず、母に何度も声を掛けたところ、うるさいと言われて、どうしていいか分からず家を出たそうだ。

(こんな小さな子が……こんな場所で……一人で……)

 痛みと絶望が、少年の小さな身体から静かに滲み出していた。
 ──これこそが、鍵。

 無条件に愛してくれる筈の親ですら助けてくれず、痛みは収まらず、未知の恐怖に晒されている。
オリヴィアは二重に心が痛んだ。

(絶望を集めて、利用するだけでは駄目よ……。こんな小さな子を。)

 オリヴィアはライルの腹にそっと手を当てた。
「……大丈夫。痛いの、すぐ治してあげるから」

 (魔界の先生が、一番役に立つからと人間の身体を治す魔術を丁寧に教えてくれる方で良かった。)
 人間界では忘れられてしまった、古い癒しの術式は身体の毒を取り、痛みを和らげる。

 そして、ライルの絶望を、そっと集めた。
「お姉ちゃん、ありがとう!」という無邪気で温かな言葉に抱いた、僅かな罪悪感と一緒に。

◇◇◇

 別荘に戻ったオリヴィアは、静かに目を閉じた。
 もう一度、地下へ向かおう。
 今度こそ、魔界門をこの目で見るために。
 ……絶望を、オリヴィアの希望に変えるために。

(嫌になるわ、無垢な子供を利用するなんて……。)

ライルは言った。
「お母さんも治して!お母さんずっとお腹痛いの。可哀想なの!」
痛みを抱えた自分を夜中に追い出した母を、治してくれと。

「あいつら(実父母)と同じに成り下がった気分ね……」

 救うなどと大層な言葉を使っても、悪魔でもなく、特別魔術の才がある訳でもないオリヴィアに出来ることなど、ごくごく僅かなことでしかない。

 病を治してやったライルの母は、涙を流していた。
あれは何の涙だろうか。

 ライルは痩せ細った母に抱きしめられて、それはそれは溶けるほどに幸せそうな笑顔だった。
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