悪魔の娘が帰還するまでーささやかな復讐と聖女の称号を添えてー
第二十三話:権力の悪魔 ※王太子視点3/4
貴族の噂は残酷だった。今やどこの茶会でも「無能な王太子」と囁かれた。
かつて彼の背を支えた重臣たちでさえ距離を取り、判断を露骨に疑うようになった。
それでも彼の周囲に残った者たちがいた。少年期から共に育った乳兄弟の側近――ユーインもその一人だ。
ある夕刻、ユーインは人気のない回廊で直言した。
「殿下、先の会議の施策はオリヴィア殿のやり方を踏襲すべきです。新しさで自身の名を飾るより、まず基盤を整えるべきです。でなければ民からの信頼を得ることは難しいと……」
アルヴェインのこめかみがぴくりと動く。
「俺に説教か、ユーイン。」
「殿下、私は……。いえ、しかしオリヴィア様を否定するために新しさばかりを求める今の殿下のやり方では、いずれ民や臣から不満が出ると……。」
「黙れ‼︎俺は俺のやり方でやる」
数日後、ユーインは辞表を置いて去った。
短い一文――「殿下の御健勝を祈る」と書かれていた。
扉が静かに閉まった音は、妙に大きく響いた。胸の奥に、何かが抜け落ちる感覚が残る。だがアルヴェインは、その穴を覗き込まない。
――裏切ったのはユーインだ。忠臣に必要なのは、王太子を支える力だろう。オリヴィアオリヴィアと、俺を否定しやがって!
◇◇◇
アイラを推す派閥はしたたかだ。アルヴェインを支持しているように見せて、自分たちへの利益の獲得に余念がなかった。
「殿下、殿下のアイデアは斬新で素晴らしいものでしたのに…!」
「ええ全く。古い方々には理解ができないのでしょう。」
「殿下、アイラ様をそろそろ正式に妃に。ご決断ひとつで、支持は盤石になりましょう。アイラ様はますます社交に勤しみ、ご親交も増えているとか」
「民は象徴を求めております。彼女ほど適う者はおりますまい。民の意見も数が集まれば、無視できませんぞ」
――盤石。
その語が、焦燥に駆られた胸に深く刺さる。今の彼が欲しているのは、絶対的な後ろ盾だった。
彼は仰々しい決裁印を捺しながら思う。
――力が要る。人心は移ろう。ならば揺れぬ力を。
その強い欲望は、ある存在を呼び寄せていた。
◇◇◇
夜、その日の何一つ上手くいかない出来事を思い出して、アルヴェインは拳を握り締めた。
王家の紋細工が刻まれた指輪の縁が皮膚に食い込む。
「……力が要る。どんな手を使ってでも」
その決意は、彼をある場所へと歩ませる。アルヴェインの意識は酒に酔ったように朦朧とした。
いざという時のため用意された、王城の地下回廊。
今や誰も知らぬ出入りの道。
低く囁く声が、彼の耳に甘く触れる。
盤石――その言葉が、再び胸で響いた。
アルヴェインは、静かに笑った。
◇◇◇
夢うつつに足を運び、ふと意識が鮮明になった。
「……?、ここは? 俺は、一体」
過去に封じられた儀式場でアルヴェインは権力と謀略の悪魔ヴァルドと対面した。
ヴァルドは軍人のような直立不動で、暗い色の外套を纏っていた。引き結ばれた唇や、執事にように整えられた灰白色の頭髪、無表情ながら落ち着いた佇まいから敵意も媚びも感じなかった。
海底のような碧い瞳だけが燭火に当たり虹色に揺らいでいたが、正面からアルヴェインを見つめていた。
アルヴェインが唯一無条件に誇れる美貌を脅かすほど、整った顔立ちの男だった。
それでもアルヴェインは腹が立たなかった。久しぶりに馬鹿にされない視線だったからかもしれないし、ヴァルドの術中にあったためかもしれない。
「正しい王位継承者たる殿下に、百年前の記録をご覧にいれましょう」
古い机上に広げられた羊皮紙は、王家の宝庫にもないはずの記録書だった。墨ともインクとも異なる何か黒いもので記された誓文、薄れた権能印、余白に細かな供儀の手順。
――繁栄の代償は、未来。
――贄に希望を担う命を捧げよ。
喉が鳴る。指先が冷える。
アルヴェインは、オリヴィアにこそ及ばず、焦るほどに成果が出ない愚か者だ。
だが王太子を降ろされない程度には、オリヴィアと張れると思い込むほどには、知識があった。
ゆえに理解できてしまった。
「……父上は、これを知らなかったのか」
「隠蔽ですよ。恥は継承されない。王家は形だけの善を掲げ、汚れた記録は忘却へ投げた」
ヴァルドの声は低いが、よく通る。
「殿下、昨今の国の翳りはこの契約のためです。百年の繁栄が終わるため。殿下の代で新たな契約を。次の百年を。子らの静けさと引き換えに、王国を再び……」
ことさら事務のように述べる言葉が、それしか道がないかのように説得力を持たせた。
アルヴェインはヴァルドの身分を質したが、ヴァルドは事務的な口調のまま堂々と、王太子にも言えぬ立場だと言った。
「過去、この言えぬ記録を封じる際に、いずれ真実を知る者が必要とされることがあると、そうして残った者です。今の王家の意向に背く者ですから…」
「そうか…」
視線を落とす。書類が全て本当であることは、王家のものしか知らぬ印と、そこに通う魔力の筋によって理解していた。
ヴァルドが用意したものは本物だった。
この血塗られた記録を見て、アルヴェインはただ「どうしたら自分の手柄に出来るか」と考えた。
盤石が欲しい。玉座に自分の姿を縫いつけたい。自身の名を後世まで残したい。
「……次の百年の儀式の方法は?」
「簡明です。子供たちの贄と引き換えに魔界の門を開き、悪魔に願う。陣はこちらを……。王家が行う神事の陣を考えれば、さして複雑なものではありません。
ただ上位の悪魔を喚び出すために敬称や偉業の記載と、贄の多さが必要です。」
「子供を捧げて、この手順通りに儀式を行えば、百年の繁栄が約束されるのだな。」
アルヴェインの瞳には、繁栄の国を治めた名君と呼ばれる自身の姿しか映っていない。歪に輝く瞳を眺めながら、ヴァルドは言う。
「過去、その通りになっております。百年間、常に魔力の供給を受け、繁栄する代わりに、常にわずかな犠牲が必要にはなりますが……」
ヴァルドは「必ず成功する」とは言わない。まして自分が悪魔だとも契約するとも言わず、ただ、わずかに頭を垂れる。
アルヴェインの頭の中でだけ、確約された輝かしい未来が広がっていた。
(これで、百年は俺のものだ……!)
かつて彼の背を支えた重臣たちでさえ距離を取り、判断を露骨に疑うようになった。
それでも彼の周囲に残った者たちがいた。少年期から共に育った乳兄弟の側近――ユーインもその一人だ。
ある夕刻、ユーインは人気のない回廊で直言した。
「殿下、先の会議の施策はオリヴィア殿のやり方を踏襲すべきです。新しさで自身の名を飾るより、まず基盤を整えるべきです。でなければ民からの信頼を得ることは難しいと……」
アルヴェインのこめかみがぴくりと動く。
「俺に説教か、ユーイン。」
「殿下、私は……。いえ、しかしオリヴィア様を否定するために新しさばかりを求める今の殿下のやり方では、いずれ民や臣から不満が出ると……。」
「黙れ‼︎俺は俺のやり方でやる」
数日後、ユーインは辞表を置いて去った。
短い一文――「殿下の御健勝を祈る」と書かれていた。
扉が静かに閉まった音は、妙に大きく響いた。胸の奥に、何かが抜け落ちる感覚が残る。だがアルヴェインは、その穴を覗き込まない。
――裏切ったのはユーインだ。忠臣に必要なのは、王太子を支える力だろう。オリヴィアオリヴィアと、俺を否定しやがって!
◇◇◇
アイラを推す派閥はしたたかだ。アルヴェインを支持しているように見せて、自分たちへの利益の獲得に余念がなかった。
「殿下、殿下のアイデアは斬新で素晴らしいものでしたのに…!」
「ええ全く。古い方々には理解ができないのでしょう。」
「殿下、アイラ様をそろそろ正式に妃に。ご決断ひとつで、支持は盤石になりましょう。アイラ様はますます社交に勤しみ、ご親交も増えているとか」
「民は象徴を求めております。彼女ほど適う者はおりますまい。民の意見も数が集まれば、無視できませんぞ」
――盤石。
その語が、焦燥に駆られた胸に深く刺さる。今の彼が欲しているのは、絶対的な後ろ盾だった。
彼は仰々しい決裁印を捺しながら思う。
――力が要る。人心は移ろう。ならば揺れぬ力を。
その強い欲望は、ある存在を呼び寄せていた。
◇◇◇
夜、その日の何一つ上手くいかない出来事を思い出して、アルヴェインは拳を握り締めた。
王家の紋細工が刻まれた指輪の縁が皮膚に食い込む。
「……力が要る。どんな手を使ってでも」
その決意は、彼をある場所へと歩ませる。アルヴェインの意識は酒に酔ったように朦朧とした。
いざという時のため用意された、王城の地下回廊。
今や誰も知らぬ出入りの道。
低く囁く声が、彼の耳に甘く触れる。
盤石――その言葉が、再び胸で響いた。
アルヴェインは、静かに笑った。
◇◇◇
夢うつつに足を運び、ふと意識が鮮明になった。
「……?、ここは? 俺は、一体」
過去に封じられた儀式場でアルヴェインは権力と謀略の悪魔ヴァルドと対面した。
ヴァルドは軍人のような直立不動で、暗い色の外套を纏っていた。引き結ばれた唇や、執事にように整えられた灰白色の頭髪、無表情ながら落ち着いた佇まいから敵意も媚びも感じなかった。
海底のような碧い瞳だけが燭火に当たり虹色に揺らいでいたが、正面からアルヴェインを見つめていた。
アルヴェインが唯一無条件に誇れる美貌を脅かすほど、整った顔立ちの男だった。
それでもアルヴェインは腹が立たなかった。久しぶりに馬鹿にされない視線だったからかもしれないし、ヴァルドの術中にあったためかもしれない。
「正しい王位継承者たる殿下に、百年前の記録をご覧にいれましょう」
古い机上に広げられた羊皮紙は、王家の宝庫にもないはずの記録書だった。墨ともインクとも異なる何か黒いもので記された誓文、薄れた権能印、余白に細かな供儀の手順。
――繁栄の代償は、未来。
――贄に希望を担う命を捧げよ。
喉が鳴る。指先が冷える。
アルヴェインは、オリヴィアにこそ及ばず、焦るほどに成果が出ない愚か者だ。
だが王太子を降ろされない程度には、オリヴィアと張れると思い込むほどには、知識があった。
ゆえに理解できてしまった。
「……父上は、これを知らなかったのか」
「隠蔽ですよ。恥は継承されない。王家は形だけの善を掲げ、汚れた記録は忘却へ投げた」
ヴァルドの声は低いが、よく通る。
「殿下、昨今の国の翳りはこの契約のためです。百年の繁栄が終わるため。殿下の代で新たな契約を。次の百年を。子らの静けさと引き換えに、王国を再び……」
ことさら事務のように述べる言葉が、それしか道がないかのように説得力を持たせた。
アルヴェインはヴァルドの身分を質したが、ヴァルドは事務的な口調のまま堂々と、王太子にも言えぬ立場だと言った。
「過去、この言えぬ記録を封じる際に、いずれ真実を知る者が必要とされることがあると、そうして残った者です。今の王家の意向に背く者ですから…」
「そうか…」
視線を落とす。書類が全て本当であることは、王家のものしか知らぬ印と、そこに通う魔力の筋によって理解していた。
ヴァルドが用意したものは本物だった。
この血塗られた記録を見て、アルヴェインはただ「どうしたら自分の手柄に出来るか」と考えた。
盤石が欲しい。玉座に自分の姿を縫いつけたい。自身の名を後世まで残したい。
「……次の百年の儀式の方法は?」
「簡明です。子供たちの贄と引き換えに魔界の門を開き、悪魔に願う。陣はこちらを……。王家が行う神事の陣を考えれば、さして複雑なものではありません。
ただ上位の悪魔を喚び出すために敬称や偉業の記載と、贄の多さが必要です。」
「子供を捧げて、この手順通りに儀式を行えば、百年の繁栄が約束されるのだな。」
アルヴェインの瞳には、繁栄の国を治めた名君と呼ばれる自身の姿しか映っていない。歪に輝く瞳を眺めながら、ヴァルドは言う。
「過去、その通りになっております。百年間、常に魔力の供給を受け、繁栄する代わりに、常にわずかな犠牲が必要にはなりますが……」
ヴァルドは「必ず成功する」とは言わない。まして自分が悪魔だとも契約するとも言わず、ただ、わずかに頭を垂れる。
アルヴェインの頭の中でだけ、確約された輝かしい未来が広がっていた。
(これで、百年は俺のものだ……!)