心が壊れたパティシエが10歳の子供に恋をして、永遠の愛を誓うまで
可愛すぎる君
喜津愛と暮らすようになって、一週間が過ぎた。
俺はまだ有休を使って仕事を休んでいるけど、そろそろ限界だ。だから明日からは出勤するつもりだ。……喜津愛のことが気がかりで、正直、まともに働けるかわからないけれど。
「俺、真にいが昔作ってたのとおんなじスイーツが食べてみたい」
キッチンで朝食を作っている俺の背中に、喜津愛の声が飛んできた。
「えっと……ケーキ屋で作ってたやつってことか?」
火を止め、振り返ると、テーブルの椅子にちょこんと座る喜津愛が、首をかしげてこちらを見ている。
「うん。ダメ?」
「いや、ダメじゃない。ただ……うん。じゃあ、行ってみるか。ケーキ屋に」
「うん!!」
喜津愛は勢いよく頷いて、ぱっと笑った。
朝ご飯を食べて、身支度を整えて、俺たちは並んで家を出た。
――そして、ケーキ屋の前に立った瞬間。
俺の足は、ぴたりと止まった。
ガラス戸にあるドアノブが、思ったよりも遠く感じる。
指が震えて、胸が苦しくて、知らないうちに涙がこぼれていた。
足元が不安定になる。
耳の奥で、あの声が蘇ってくる。
『なあ真逢、お前ゲイなんだってな。そうなんだろ?』
『美月さんにずっと鼻の下伸ばしてたんだろ? 婚約者がいるって知っててさ。それでも好きで、一緒の職場を選んだんだろ? それ知ったら、美月さんはどう思うんだろうな』
あの日。
ロッカールームで制服に着替えていた俺の背後から、門倉は囁いた。
否定しようとしたその瞬間、耳を噛まれて、ズボンを乱暴に引っ張られた。
抵抗して、下着姿のまま叫んだ。
――そしたら、美月さんが駆け込んできてくれた。
助けてくれた。それでも俺は、あの場所に戻れなかった。
美月さんのことが、大好きだった。
毎日声をかけてくれたことも、果物を手際よくカットする姿も、柔らかな声も、クリームを絞る手つきも。
困ったときには必ず助けてくれるその背中も――全部、愛していた。
それでも俺は、何も言えなかった。
「もう無理です」とだけ言って、理由を話さずに、入社から一週間でケーキ屋を辞めた。
俺には、それしかできなかった。
泣き虫で、弱虫で、ゲイで。
それでも自分なりに頑張って生きてきた。専門学校だって、きちんと卒業した。
だけど――結局、俺にできたのは、逃げることだけだった。
「……真逢」
不意に、ドアが内側から開いて。
名前を呼ぶ、懐かしい声がした。
そこに立っていたのは、美月さんだった。
金髪は透けるように輝いていて、白髪ひとつない毛先まで美しかった。
長い手足、指先に光る薬指の指輪――俺の恋に終止符を打った証。
陶器のように白い肌。何もかもが、あの頃のままだ。
何一つ、変わっていない。
ただ一つだけ、変わってしまったのは――俺たちがもう、上司と部下じゃないということ。
「み、みつきさん……」
視界が滲む。涙があふれて、止まらない。
やっぱり、ここに来るべきじゃなかった。
見てしまったら、戻りたくなってしまう。
でも――俺には、その資格なんてないんだ。
ずっと夢だった。スイーツを作る仕事に就くことが。
それがが叶って、大好きなケーキを毎日作れるようになったのに。
あの日、犯されそうになった。怖かった。悔しかった。
それでも、そこで戦わずに、自分から手放してしまった。 俺なんかに、もう一度この場所に立つ権利なんて、ない。
もう一度、パティシエを目指すなんて――そんな資格、あるわけがないんだ。