孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない

沈黙を強いる側の論理

ランチを終えてオフィスに戻ると、入口付近で上司の片山が紬の名前を呼んだ。

「成瀬さん、ちょっといいかな」

その声音に、ふと胸がざわついた。
「はい」と返しながら歩み寄ると、片山は低く「取り込んでてね」とだけ言い、会議室の扉を開ける。
その言い回しに、紬の心拍がわずかに跳ねた。

無機質な長机、等間隔に並ぶ椅子。
片山に促されて紬は着席する。
隣に座った片山は、真正面ではなく、少しだけ彼女の方に体を向けていた。

「……岩崎のことなんだけど」

その名前に、紬の背中が僅かに強張った。

「人事が話を聞いたら、岩崎は『言いがかりだ』って。『目撃者がいないのに、犯人扱いするのか』『成瀬のでっちあげだ』って、そんなふうに言ってた」

片山の声は冷静だった。感情をあえて排しているように思えた。

「俺は、君が嘘をついてるとは思っていないよ。でも……人事は、君に直接話を聞きたいそうだ」

静かに、けれどはっきりと突きつけられた現実。
忘れかけていた記憶が、砂の中から手を引かれるように引きずり出される感覚。息が詰まりそうになった。

あの日の空気、声、手の感触、周囲の無関心。それらが鮮明に蘇る。
間違いなく、あれはセクハラだった。なのに岩崎は、証拠も目撃者もないことを盾に、事実を捻じ曲げている。

予想していた。けれど、悔しかった。

自分の体験が、言葉一つで「なかったこと」にされる悔しさ。
心の奥に沈めていた傷口が、再び開かれるような痛みがあった。

それでも、紬は目を逸らさず、小さくうなずいた。
「……わかりました」

この言葉が、彼女の覚悟の始まりだった。
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