孤高の弁護士は、無垢な彼女を手放さない

信じる勇気

執務室に通されると、一条は淡々とした口調で言った。

「そこのソファで、お掛けください」

紬はかすかに頷きながら腰を下ろした。
けれど、両手はまだ小刻みに震えていた。
それを気取られまいと、膝の上でぎゅっと組み合わせ、隠すように指を握りしめた。

(…感情的になってると思われたくない)

そんな思いだけで、心をつないでいた。

ふと視線を上げると、一条は自分から少し距離をとった執務机に立ったまま寄りかかり、じっと紬を見ていた。

近づかない、その距離――それがかえって、心に沁みた。
配慮だった。押しつけがましくない、静かな優しさ。

「成瀬さん、先程の会議で――何か、ありましたか?」

その言葉が、引き金になった。
一瞬にして、あのときの感覚が、紬の全身を駆け抜ける。

脚に這うような圧迫感。
机の下で押し付けられた、不快で気持ちの悪い感触。
逃げたくても逃げられない閉塞感と、恐怖。

(やめて、思い出したくない――)

眉間に皺を寄せ、目をぎゅっと閉じた。
これ以上、感情があふれ出さないように。
こらえるように、深く、息を吸った。

けれど、一条はその沈黙を静かに破った。

「――あの机の下で、何かされましたね?」

その声が、鋭く、確信に満ちていた。

心の防壁が、一気に音を立てて崩れていく。
涙が浮かぶわけではなかった。
ただ、瞼の裏に、熱がじわりと広がる。

(言いたくない。けど……もう、誰かに、知られてしまった)

逃げられなかったこと。
毅然と対処できなかったこと。
何も言えずに耐えていた自分を、一番許せない。
まただ。私はまた、黙って、やり過ごそうとした。

「……私……セクハラ、されていて。あの人に、ずっと……新人の頃から……」

震える声で、ようやく吐き出すように言った。

その瞬間、一条の目が、明らかに変わった。
平静を保っていた視線に、露骨な嫌悪と怒りが滲む。
静かな怒り。
感情をぶつけるのではなく、徹底的に抑え込んでいるがゆえに、逆に恐ろしいほどの怒気がある。

「……それは、いつからですか?」

声は低く、けれど丁寧だった。
感情的に詰め寄るのではなく、事実を確認しようとする、法の人間としての冷静さがある。
だがその目には、明らかに「許さない」という意志が宿っていた。
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