「愛は期待するな」と宣言していたエリート警視正の旦那様に離婚届を渡したら、次の日から溺愛が始まりました
第1話 彼女が離婚届を渡した理由

《1》

 半ば無理やり着せられた振袖の帯にお腹を締めつけられながら、私――斎賀(さいが)薫子は、ひたすら浅い呼吸を繰り返していた。

 三月中旬の日曜、正午過ぎ。
 場所は、私の母が懇意にしている老舗料亭の離れの一室。座敷に座っているのは私を含めた四人だ。
 私の隣には満面の笑みを浮かべた母が、そして母の向かいには今日のこの席を用意した母の弟、すなわち叔父が座っている。ふたりとも極めて上機嫌に見えるから、余計にげんなりしてしまう。

 そして、叔父の隣には。
 機械的に箸を動かしていた自分の指が、とうとうひたりと止まる。
 無論、食事が済んだからというわけではなかった。

 今日のために用意されたのは、この料亭で最も美しく庭園が見える一室だ。
 真正面の壁が一面ガラス張りになった大窓から覗く日本庭園では、白梅が艶やかに細枝を飾っている。けれど、そういう雅な風景も、色とりどりの料理が並べられたお膳も、私の強烈な緊張を和らげるまでには至らない。
 学生の頃までは、よく母や母方の祖父母に連れられ、着物でめかし込んでいろいろな場所へ出かけたものだ。それが就職して以降、特にここ三年は、こういう華やかな世界からは縁遠くなっていた。こんなふうに着物で着飾るのも久しぶりだ。

 もっと心が躍っていてもおかしくないはずが、今の私はそれどころではない。
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