初めまして皇帝陛下。どうぞ離婚してくださいませ〜3年放置された花嫁は離婚を突きつける〜
第七章 咲かない薔薇『ローザリア』
「陛下、いらっしゃらないのね」
そのあと、陛下はしばらく私の部屋を訪れなかった。
──私、何かあの夜粗相をしてしまったのではないかしら?
不安が胸をよぎった。
それとも、処女の相手はめんどくさかったのかもしれない。そういう男もいると聞く。
あの一夜が明けた朝、陛下はたいそう動揺していらっしゃったようだった。だから、私を相手にするのが面倒になったのかもしれない。
帝国中を探せば、いくらでも、美しい、男の扱いに長けた女はいるだろう。
──でもそうしたら、私の賭けの勝率が上がるのよね。
しかし、私はあの痛みのあとに訪れた甘美な夜を思い出す。
賭けの相手に忘れ去られることが悔しいような、賭けの勝率が上がることが嬉しいような、放置されていることが寂しいような、色々と複雑な感情が胸をかき乱した。
──べ、別に私の元に来て欲しいとか、そういうわけではないのだから!
「図書館に行きましょう」
そう、誰にいうでもなく私は口にする。
揺れる気持ちを解消したい、と私はいつものように図書館に向かうことにした。本は、私からどんな憂いも忘れさせてくれる。
そうして図書館を訪れると、意外な先客がいるのが目に入った。
「あら、クリスティーナさまに、ハンス」
ふたりは揃って書棚を物色しているようだ。クリスティーナさまの手には本があるということは、今はハンスの本を探しているのだろうか?
「あ、コルネリアお義姉さま!」
たたたっとハンスが小走りに駆け寄ってくる。ハンスの口ぶりは、八歳になって大分しっかりしてきた。
「珍しいわね。何か、ご本を探しているの?」
しゃがみ込んでハンスと目線を合わせて尋ねた。
すると、代わりにクリスティーナさまが答えてくれた。
「ハンスの語学のお勉強用になるような本がないか、探していたのよ。先生がおっしゃるには、この子、どうも語学に興味を持てないみたいで、困っていて……」
そう言って、言葉どおり困った様子で手を添えて首を傾げた。
「うーん、そうですねえ。子供用の語学の本なら、こちらでなく、あちらにもありますよ」
私は三年間、足繁く図書館に通っているから、ここの蔵書の配置もすっかり頭の中に収まっている。コーネリアさまとハンスを促して、書棚の合間を移動した。
「この辺りの本であれば、ハンスも興味が持てるんじゃないでしょうか?」
前にいた場所は、学科の先生が教えるのに使うような、極々普通の真面目な本が並んでいる書棚だった。それに比べて、私が案内した書棚に収められていたのは遊びながら語学を学べる本たちだったのだ。
ハンスが書棚から、あれでもない、これでもないと本を物色していると、その中のとある一冊で手を止めた。
「わぁ、お母さま! これ、絵がいっぱい! 僕これなら読みたいな!」
横で見ていた私はその本に驚かされる。帝国は印刷技術が発達しているのだろう。子供向けの学習書だというのに、絵が惜しまずたくさん印刷されているのだ。しかも色と手間を惜しまずカラフルだ。活版印刷までとは言わないけれど、たいした印刷技術だった。
きっと絵の印刷用の天板もたくさん作られたに違いない。
そんなことを感心していると、クリスティーナさまがハンスの元へやってきてその本を覗き込む。
「まあ、ひとつの言葉に、こんなにたくさんの説明が載っているわ。ハンス、これならお勉強はかどりそう?」
そう尋ねると、ハンスが大きく頷いた。
「うん、コルネリアお義姉さまに教えていただいた、ここの本で僕お勉強する!」
「そう、良かったわ」
そうして、クリスティーナが私に向かって顔を上げる。
「ありがとう、コルネリア。おかげでハンスがやる気になってくれたみたい」
そう言って笑う笑顔は可憐で清楚な花のようだった。
「ああそうだ。このあと私たちはテラスでお茶をしながらこの子に本を読ませようと思っているのよ。あなたも、ご一緒にどう? もちろん、あなたのお目当ての本を選んでからで良いわ。今は陽気も良くて花々も見頃よ、どうかしら?」
そんな素敵なお誘い、私に断る理由もなかった。
「はい! でしたら、読む本を選んでからあとから伺います」
そう返答すると、クリスティーナさまが嬉しそうににっこり笑う。
「じゃあ、またあとでね」
そう言うと、クリスティーナさまとハンスは図書館をあとにした。
「……私は何を読もうかしら」
私は、まだまだ図書館の本の制覇にはまだまだ日は遠かった。読むべき本はいくらでもある。
「そういえば、テラスでお花が見られるっておっしゃっていたわ。じゃあ、植物図鑑の続きを借りていこうかしら」
もう帝国に来て三年。図書館の本はほぼ読み尽くしたと言っても良かった。
その中で、植物図鑑は全部で何冊かあって、全集という形で構成されていた。それが、あともう少しで読み終わりそうだったのだ。
私はそう決めて、それが収められている場所に移動する。そして、貸し出し手続きをしてからその場をあとにするのだった。
庭のテラス席は初めてだった。
だから、テラスの場所までは、途中で出会ったマリアに案内してもらった。
「こっちよ、コルネリア!」
テラスに着くと、クリスティーナさまが私を呼ぶ。
「クリスティーナさま、ハンス!」
そう呼びかけてから、私は庭の様子に目を奪われる。
「わぁ綺麗!」
清楚な青い花に大輪の赤い花、ピンクの愛らしい花と、様々な花が今を盛りと咲いていた。私は庭の景色に見惚れてしまう。だが、そんな庭の中、まだ花を付けていない一角あることに目を留めた。
変ね。あそこはまだ、花の季節じゃないのかしら?
そんな庭に気を取られている様子の私に、マリアが声をかけて席に誘う。
「コルネリアさま、こちらへどうぞ」
そう言われて私はそちらへと向かう。すると、マリアがタイミング良く私の椅子を後ろに引いてくれたので、私は、それに応じて椅子に腰掛けた。すると、事前にいた侍女がすかさず紅茶を注いでくれた。
「美味しいですわ」
私は素直にその味と香りを賞賛する。
「それは、キーマン高原で採れる希少な紅茶なのよ。ちょうど来賓の方からいただいたから、ぜひあなたにと思って。お口に合ったようで嬉しいわ。ああ、焼き菓子も用意させてあるから、食べてちょうだい」
そう言って、クリスティーナさまが説明する。
キーマン高原というのは帝国が征服した北部の国で、その国にある高山地帯のことをいう。紅茶の名産地として有名だ。そうやって、ロイエンタール帝国は、征服した各国からの輸入品で溢れて富んでいた。それら輸入品たちはこうやって、贅沢品として主に王族や貴族、裕福な商人たちの間で重宝されている。
ちなみに、前世でも世界三大銘茶としてキーマン紅茶というものがあったけれど、この世界にはお茶に限らず同じ名前のものがいくつも存在する。不思議なものね。
「私、キーマンのお茶をいただいたのは初めてです」
その名は知っていたが、口にするのは初めてで、感激してそう口にする。前世でも、病院にばかりいた私は贅沢なお茶を楽しむなんて機会はなかったのだ。
「コルネリアお義姉さまは、皇后なんだから、欲しいって言えば、何でも飲めるよ!」
無邪気にハンスがそう言う。
「こら、ハンス。王族があまり率先してなんでも贅沢するのは良くないのよ」
そう言って、優しくハンスを窘めるクリスティーナさま。
「そういえば、あまりクリスティーナさまは贅沢なことをなさいませんね」
クリスティーナさまは、前皇后としての肩書きはない。亡くなった前の皇帝の寵姫に過ぎなかった。もちろん、皇弟の母としての立場がある手前、必要な装いはしている。だが、短い間の観察に過ぎないが、そう華美すぎる装いでもないし、やたらとドレスや装飾品を新調することもないように見えた。
「私は、元々は子爵家から見習いに来ていた侍女で。それが、たまたま皇后さまを亡くされて寂しくしておられた前皇帝陛下に見初められただけ。そして、たまたまハンスを身ごもっただけだから。……私に贅沢なんて、身分不相応なのよ」
そう言って、クリスティーナさまは小さく笑った。
貴族には簡単に五つの爵位がある。上位から、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵。私は属国といえども上位一位の公爵家の出だが、クリスティーナさまは下から数えて二番目の子爵家の出。そうなると、宮殿にいるのも肩身が狭い、ということもあるのだろうか。
クリスティーナさまの様子を見て、私は推測してしまった。
小さく笑うクリスティーナさまの様子は可憐な小さな花といった様子だ。
「私なんて、宮殿に住む前陛下が気まぐれに、野に咲く花に目が行って手折られたというだけなのよ、きっと。そして子を産んだ。ハンスを産んだことは後悔しないけれども、だからこそもう私はもうここから出られない」
「クリスティーナさま……」
私はなんて言って慰めたら良いのか分からずに、彼女の名を呼ぶ。
すると、にっこりと彼女は微笑んだ。
「大丈夫よ、コルネリア。前皇帝陛下は私にハンスを遺してくれたし、今はあなたという新しい義娘もいるわ。……皇帝陛下はご不在のことが多いけれど。私は家族に囲まれて幸せよ」
──大陸平定を目標になさっている方だものね。
その不在がちな人の、形式上とはいえ妻である私はなんとも言えない気持ちになる。
ちょっと静かになってしまったその雰囲気を変えようと、クリスティーナさまがぽんっっと手を叩く。
「さあさあ、難しい顔をしていないで、美味しくお菓子をいただきましょう。今日はあなたを驚かせたくて、菓子の中でも帝国随一のものばかりを用意させたのよ」
そう言われて勧められた菓子たちも私がアッヘンバッハ王国では見たこともないような色とりどりのお菓子が並べられており、洗練されている。これらも、他国から取り入れられた菓子もあり、帝国で考案された菓子もあり、どれから食べようかと私は迷ってしまう。
もちろん、もう帝国に来て三年ということもあり、それなりに焼き菓子を供される場面もあった。だが、その中でも今日並べられている菓子たちは見たこともない物ばかりが取り揃えられていた。
その中で、ひときわ目を引く色鮮やかな菓子があった。
「これは、マカロンですか?」
前世の記憶と、こちらでの書物で知っていた菓子。とても作るのが難しく、この世界では高級品だということは知っていた。前世病室生活の私には、憧れだったお菓子である。
それとそっくりな形をしたコロンと丸いとりどりの色で染められた菓子が皿の上に並べられていたのだ。
「まぁ? マカロンを知っているの? 博識ね。これは製法が難しいらしくて、帝都の職人の手でしか作られていないお菓子なのに」
「本で、知りました。これ……食べてみてもよろしくて?」
私はクリスティーナさまに許しを請う。
「もちろんよ! いちいち私に尋ねないでも、好きなものを食べてちょうだい!」
そう言って勧めるクリスティーナさまは楽しそうだ。では、遠慮なくお呼ばれしましょう。
──嬉しいわ! 前世からの憧れが叶うなんて!
まずはマカロンの上で手を止める。確かこれは、何のジャムやクリームが挟んであるか分かるように外側を食紅で色づけている。そして、これはナイフやフォークなどを使わずに手で直接取って食べても良いものと本で読んだ。
「緑だと……ピスタチオかしら?」
ピスタチオはアッヘンバッハではなじみのないものだったので、新しい未知の味に興味があった。
「正解。やっぱり博識ね。気に入ったならそれからどうぞ」
クリスティーナさまがそのまま勧めてくれるので、それを手に取り、さくりと半分食む。そうして、中に挟まれたクリームを味わう。
「ナッツのようで甘くて香ばしさとまろやかさがあって。濃厚な味わいなのですね。……これは好きになりそうです」
「まあ、それは良かったわ!」
そうして残りの半分を食べ終える。すると、クリスティーナさまとばかり話していたからか、ハンスが私の方に身を乗り出してきた。
「ねえねえ、これは知ってる? 美味しいんだよ! 食べてみてよ!」
そうして指し示されたのは、皿に載せられた、黒い小さな円柱形の焼き菓子だった。その黒い物体の上には粉糖らしきものが振るわれている。
「……これは、何かしら?」
一見しただけでは分からず、私は首を傾げる。
「フォンダンショコラ、って言うんだよ!」
自慢げに、ハンスが私に教えてくれる。
「これがフォンダンショコラ……! これって、焼き菓子の中にとろっとしたチョコが隠されているという、あのフォンダンショコラよね?」
きっと私の目は歓喜に目が光っていたに違いない。これも、本でしか読んだことはなかった。今世でも子供の頃、異国の菓子の本を読んで、どんな味わいなのだろうと夢想したものだ。
これも前世の頃に、憧れだったお菓子!
温めて食べるお菓子なんて、病室暮らしの私には縁のなかったものなのだ。
「では、こちらを温めてまいりましょう」
そうして私が心の中で歓喜していると、すかさず、マリアが一皿手に取って、厨房へと消えていく。そして、しばらくすると、温められたその皿が私の目の前に置かれたのだった。
「それは、ナイフとフォークで食べるんだよ」
そうハンスに教わって、私はナイフとフォークを手に取った。
──さあ、ナイフで切ったらどうなるのかしら!
胸がわくわくする。
すっとナイフを入れる。すると、その切れ目から、とろりとした湯気を立てた温かそうなチョコレートが流れ出た。私はナイフを使って一口大に生地を切ると、その溢れ出たチョコレートを絡めて口に運んだ。
「んっ……とろっとろ……!」
感極まって思わず感想が口に出てしまう。
「ねっ、おいしいでしょう?」
思ったとおりに喜んでもらえたのが嬉しいのか、はち切れんばかりの笑顔になるハンスが愛らしい。
「美味しいわ。勧めてくれてありがとう」
そう言いながら、私は手を動かす。そうして、チョコレートの最後のひとすくいまでを綺麗に食べ終えた。
「もう、お腹がいっぱいだわ」
マカロンとフォンダンショコラで、昼間の軽食には十分な量で、私は膝に置いていたナプキンで口元を拭き取る。そして、それをテーブルの上に乗せた。
クリスティーナさまもハンスも同様のようだ。
「ハンス、さっきのご本でのお勉強は済んだの?」
私は話題を持ち出すために、ハンスにそう尋ねた。
「ううんっとね。まだ、最初の方だけなんだ……」
そう言ってハンスが本を開き出すので、私は席を立ってハンスの背後に立つ。
「ここまでだよ」
「そう。じゃあ、続きを読んでみましょうか」
「はぁい。じゃぁ……」
そうして、ハンスの語学の時間が始まる。クリスティーナさまは私たちの様子を目を細めて温かく見守っていた。春の風がたなびき、穏やかな家族の時間が過ぎていった。
そのあと、陛下はしばらく私の部屋を訪れなかった。
──私、何かあの夜粗相をしてしまったのではないかしら?
不安が胸をよぎった。
それとも、処女の相手はめんどくさかったのかもしれない。そういう男もいると聞く。
あの一夜が明けた朝、陛下はたいそう動揺していらっしゃったようだった。だから、私を相手にするのが面倒になったのかもしれない。
帝国中を探せば、いくらでも、美しい、男の扱いに長けた女はいるだろう。
──でもそうしたら、私の賭けの勝率が上がるのよね。
しかし、私はあの痛みのあとに訪れた甘美な夜を思い出す。
賭けの相手に忘れ去られることが悔しいような、賭けの勝率が上がることが嬉しいような、放置されていることが寂しいような、色々と複雑な感情が胸をかき乱した。
──べ、別に私の元に来て欲しいとか、そういうわけではないのだから!
「図書館に行きましょう」
そう、誰にいうでもなく私は口にする。
揺れる気持ちを解消したい、と私はいつものように図書館に向かうことにした。本は、私からどんな憂いも忘れさせてくれる。
そうして図書館を訪れると、意外な先客がいるのが目に入った。
「あら、クリスティーナさまに、ハンス」
ふたりは揃って書棚を物色しているようだ。クリスティーナさまの手には本があるということは、今はハンスの本を探しているのだろうか?
「あ、コルネリアお義姉さま!」
たたたっとハンスが小走りに駆け寄ってくる。ハンスの口ぶりは、八歳になって大分しっかりしてきた。
「珍しいわね。何か、ご本を探しているの?」
しゃがみ込んでハンスと目線を合わせて尋ねた。
すると、代わりにクリスティーナさまが答えてくれた。
「ハンスの語学のお勉強用になるような本がないか、探していたのよ。先生がおっしゃるには、この子、どうも語学に興味を持てないみたいで、困っていて……」
そう言って、言葉どおり困った様子で手を添えて首を傾げた。
「うーん、そうですねえ。子供用の語学の本なら、こちらでなく、あちらにもありますよ」
私は三年間、足繁く図書館に通っているから、ここの蔵書の配置もすっかり頭の中に収まっている。コーネリアさまとハンスを促して、書棚の合間を移動した。
「この辺りの本であれば、ハンスも興味が持てるんじゃないでしょうか?」
前にいた場所は、学科の先生が教えるのに使うような、極々普通の真面目な本が並んでいる書棚だった。それに比べて、私が案内した書棚に収められていたのは遊びながら語学を学べる本たちだったのだ。
ハンスが書棚から、あれでもない、これでもないと本を物色していると、その中のとある一冊で手を止めた。
「わぁ、お母さま! これ、絵がいっぱい! 僕これなら読みたいな!」
横で見ていた私はその本に驚かされる。帝国は印刷技術が発達しているのだろう。子供向けの学習書だというのに、絵が惜しまずたくさん印刷されているのだ。しかも色と手間を惜しまずカラフルだ。活版印刷までとは言わないけれど、たいした印刷技術だった。
きっと絵の印刷用の天板もたくさん作られたに違いない。
そんなことを感心していると、クリスティーナさまがハンスの元へやってきてその本を覗き込む。
「まあ、ひとつの言葉に、こんなにたくさんの説明が載っているわ。ハンス、これならお勉強はかどりそう?」
そう尋ねると、ハンスが大きく頷いた。
「うん、コルネリアお義姉さまに教えていただいた、ここの本で僕お勉強する!」
「そう、良かったわ」
そうして、クリスティーナが私に向かって顔を上げる。
「ありがとう、コルネリア。おかげでハンスがやる気になってくれたみたい」
そう言って笑う笑顔は可憐で清楚な花のようだった。
「ああそうだ。このあと私たちはテラスでお茶をしながらこの子に本を読ませようと思っているのよ。あなたも、ご一緒にどう? もちろん、あなたのお目当ての本を選んでからで良いわ。今は陽気も良くて花々も見頃よ、どうかしら?」
そんな素敵なお誘い、私に断る理由もなかった。
「はい! でしたら、読む本を選んでからあとから伺います」
そう返答すると、クリスティーナさまが嬉しそうににっこり笑う。
「じゃあ、またあとでね」
そう言うと、クリスティーナさまとハンスは図書館をあとにした。
「……私は何を読もうかしら」
私は、まだまだ図書館の本の制覇にはまだまだ日は遠かった。読むべき本はいくらでもある。
「そういえば、テラスでお花が見られるっておっしゃっていたわ。じゃあ、植物図鑑の続きを借りていこうかしら」
もう帝国に来て三年。図書館の本はほぼ読み尽くしたと言っても良かった。
その中で、植物図鑑は全部で何冊かあって、全集という形で構成されていた。それが、あともう少しで読み終わりそうだったのだ。
私はそう決めて、それが収められている場所に移動する。そして、貸し出し手続きをしてからその場をあとにするのだった。
庭のテラス席は初めてだった。
だから、テラスの場所までは、途中で出会ったマリアに案内してもらった。
「こっちよ、コルネリア!」
テラスに着くと、クリスティーナさまが私を呼ぶ。
「クリスティーナさま、ハンス!」
そう呼びかけてから、私は庭の様子に目を奪われる。
「わぁ綺麗!」
清楚な青い花に大輪の赤い花、ピンクの愛らしい花と、様々な花が今を盛りと咲いていた。私は庭の景色に見惚れてしまう。だが、そんな庭の中、まだ花を付けていない一角あることに目を留めた。
変ね。あそこはまだ、花の季節じゃないのかしら?
そんな庭に気を取られている様子の私に、マリアが声をかけて席に誘う。
「コルネリアさま、こちらへどうぞ」
そう言われて私はそちらへと向かう。すると、マリアがタイミング良く私の椅子を後ろに引いてくれたので、私は、それに応じて椅子に腰掛けた。すると、事前にいた侍女がすかさず紅茶を注いでくれた。
「美味しいですわ」
私は素直にその味と香りを賞賛する。
「それは、キーマン高原で採れる希少な紅茶なのよ。ちょうど来賓の方からいただいたから、ぜひあなたにと思って。お口に合ったようで嬉しいわ。ああ、焼き菓子も用意させてあるから、食べてちょうだい」
そう言って、クリスティーナさまが説明する。
キーマン高原というのは帝国が征服した北部の国で、その国にある高山地帯のことをいう。紅茶の名産地として有名だ。そうやって、ロイエンタール帝国は、征服した各国からの輸入品で溢れて富んでいた。それら輸入品たちはこうやって、贅沢品として主に王族や貴族、裕福な商人たちの間で重宝されている。
ちなみに、前世でも世界三大銘茶としてキーマン紅茶というものがあったけれど、この世界にはお茶に限らず同じ名前のものがいくつも存在する。不思議なものね。
「私、キーマンのお茶をいただいたのは初めてです」
その名は知っていたが、口にするのは初めてで、感激してそう口にする。前世でも、病院にばかりいた私は贅沢なお茶を楽しむなんて機会はなかったのだ。
「コルネリアお義姉さまは、皇后なんだから、欲しいって言えば、何でも飲めるよ!」
無邪気にハンスがそう言う。
「こら、ハンス。王族があまり率先してなんでも贅沢するのは良くないのよ」
そう言って、優しくハンスを窘めるクリスティーナさま。
「そういえば、あまりクリスティーナさまは贅沢なことをなさいませんね」
クリスティーナさまは、前皇后としての肩書きはない。亡くなった前の皇帝の寵姫に過ぎなかった。もちろん、皇弟の母としての立場がある手前、必要な装いはしている。だが、短い間の観察に過ぎないが、そう華美すぎる装いでもないし、やたらとドレスや装飾品を新調することもないように見えた。
「私は、元々は子爵家から見習いに来ていた侍女で。それが、たまたま皇后さまを亡くされて寂しくしておられた前皇帝陛下に見初められただけ。そして、たまたまハンスを身ごもっただけだから。……私に贅沢なんて、身分不相応なのよ」
そう言って、クリスティーナさまは小さく笑った。
貴族には簡単に五つの爵位がある。上位から、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵。私は属国といえども上位一位の公爵家の出だが、クリスティーナさまは下から数えて二番目の子爵家の出。そうなると、宮殿にいるのも肩身が狭い、ということもあるのだろうか。
クリスティーナさまの様子を見て、私は推測してしまった。
小さく笑うクリスティーナさまの様子は可憐な小さな花といった様子だ。
「私なんて、宮殿に住む前陛下が気まぐれに、野に咲く花に目が行って手折られたというだけなのよ、きっと。そして子を産んだ。ハンスを産んだことは後悔しないけれども、だからこそもう私はもうここから出られない」
「クリスティーナさま……」
私はなんて言って慰めたら良いのか分からずに、彼女の名を呼ぶ。
すると、にっこりと彼女は微笑んだ。
「大丈夫よ、コルネリア。前皇帝陛下は私にハンスを遺してくれたし、今はあなたという新しい義娘もいるわ。……皇帝陛下はご不在のことが多いけれど。私は家族に囲まれて幸せよ」
──大陸平定を目標になさっている方だものね。
その不在がちな人の、形式上とはいえ妻である私はなんとも言えない気持ちになる。
ちょっと静かになってしまったその雰囲気を変えようと、クリスティーナさまがぽんっっと手を叩く。
「さあさあ、難しい顔をしていないで、美味しくお菓子をいただきましょう。今日はあなたを驚かせたくて、菓子の中でも帝国随一のものばかりを用意させたのよ」
そう言われて勧められた菓子たちも私がアッヘンバッハ王国では見たこともないような色とりどりのお菓子が並べられており、洗練されている。これらも、他国から取り入れられた菓子もあり、帝国で考案された菓子もあり、どれから食べようかと私は迷ってしまう。
もちろん、もう帝国に来て三年ということもあり、それなりに焼き菓子を供される場面もあった。だが、その中でも今日並べられている菓子たちは見たこともない物ばかりが取り揃えられていた。
その中で、ひときわ目を引く色鮮やかな菓子があった。
「これは、マカロンですか?」
前世の記憶と、こちらでの書物で知っていた菓子。とても作るのが難しく、この世界では高級品だということは知っていた。前世病室生活の私には、憧れだったお菓子である。
それとそっくりな形をしたコロンと丸いとりどりの色で染められた菓子が皿の上に並べられていたのだ。
「まぁ? マカロンを知っているの? 博識ね。これは製法が難しいらしくて、帝都の職人の手でしか作られていないお菓子なのに」
「本で、知りました。これ……食べてみてもよろしくて?」
私はクリスティーナさまに許しを請う。
「もちろんよ! いちいち私に尋ねないでも、好きなものを食べてちょうだい!」
そう言って勧めるクリスティーナさまは楽しそうだ。では、遠慮なくお呼ばれしましょう。
──嬉しいわ! 前世からの憧れが叶うなんて!
まずはマカロンの上で手を止める。確かこれは、何のジャムやクリームが挟んであるか分かるように外側を食紅で色づけている。そして、これはナイフやフォークなどを使わずに手で直接取って食べても良いものと本で読んだ。
「緑だと……ピスタチオかしら?」
ピスタチオはアッヘンバッハではなじみのないものだったので、新しい未知の味に興味があった。
「正解。やっぱり博識ね。気に入ったならそれからどうぞ」
クリスティーナさまがそのまま勧めてくれるので、それを手に取り、さくりと半分食む。そうして、中に挟まれたクリームを味わう。
「ナッツのようで甘くて香ばしさとまろやかさがあって。濃厚な味わいなのですね。……これは好きになりそうです」
「まあ、それは良かったわ!」
そうして残りの半分を食べ終える。すると、クリスティーナさまとばかり話していたからか、ハンスが私の方に身を乗り出してきた。
「ねえねえ、これは知ってる? 美味しいんだよ! 食べてみてよ!」
そうして指し示されたのは、皿に載せられた、黒い小さな円柱形の焼き菓子だった。その黒い物体の上には粉糖らしきものが振るわれている。
「……これは、何かしら?」
一見しただけでは分からず、私は首を傾げる。
「フォンダンショコラ、って言うんだよ!」
自慢げに、ハンスが私に教えてくれる。
「これがフォンダンショコラ……! これって、焼き菓子の中にとろっとしたチョコが隠されているという、あのフォンダンショコラよね?」
きっと私の目は歓喜に目が光っていたに違いない。これも、本でしか読んだことはなかった。今世でも子供の頃、異国の菓子の本を読んで、どんな味わいなのだろうと夢想したものだ。
これも前世の頃に、憧れだったお菓子!
温めて食べるお菓子なんて、病室暮らしの私には縁のなかったものなのだ。
「では、こちらを温めてまいりましょう」
そうして私が心の中で歓喜していると、すかさず、マリアが一皿手に取って、厨房へと消えていく。そして、しばらくすると、温められたその皿が私の目の前に置かれたのだった。
「それは、ナイフとフォークで食べるんだよ」
そうハンスに教わって、私はナイフとフォークを手に取った。
──さあ、ナイフで切ったらどうなるのかしら!
胸がわくわくする。
すっとナイフを入れる。すると、その切れ目から、とろりとした湯気を立てた温かそうなチョコレートが流れ出た。私はナイフを使って一口大に生地を切ると、その溢れ出たチョコレートを絡めて口に運んだ。
「んっ……とろっとろ……!」
感極まって思わず感想が口に出てしまう。
「ねっ、おいしいでしょう?」
思ったとおりに喜んでもらえたのが嬉しいのか、はち切れんばかりの笑顔になるハンスが愛らしい。
「美味しいわ。勧めてくれてありがとう」
そう言いながら、私は手を動かす。そうして、チョコレートの最後のひとすくいまでを綺麗に食べ終えた。
「もう、お腹がいっぱいだわ」
マカロンとフォンダンショコラで、昼間の軽食には十分な量で、私は膝に置いていたナプキンで口元を拭き取る。そして、それをテーブルの上に乗せた。
クリスティーナさまもハンスも同様のようだ。
「ハンス、さっきのご本でのお勉強は済んだの?」
私は話題を持ち出すために、ハンスにそう尋ねた。
「ううんっとね。まだ、最初の方だけなんだ……」
そう言ってハンスが本を開き出すので、私は席を立ってハンスの背後に立つ。
「ここまでだよ」
「そう。じゃあ、続きを読んでみましょうか」
「はぁい。じゃぁ……」
そうして、ハンスの語学の時間が始まる。クリスティーナさまは私たちの様子を目を細めて温かく見守っていた。春の風がたなびき、穏やかな家族の時間が過ぎていった。