氷壁エリートの夜の顔

第5話 静かな熱

 私がここで働いていると知ったのだから、週末の夜、もう彼が来ることはないだろう。
 そう思っていたけれど──その予想は、あっけなく裏切られた。

 翌週の土曜、私は暖簾を出しに店の外に出た。
 扉の札を「営業中」に返し、横の植木鉢に目をやる。ワレモコウはすっかり花の終わりを迎え、美しかった赤紫は、くすんだ茶に近づいていた。

「今年も、きれいな花をありがとう」

 そうつぶやいたとき、ふいに背後に影が差した。振り返ると──また、結城さんが立っていた。
 一瞬、呼吸が止まりそうになる。

「こんばんは」

 相変わらず感情の読めない顔で、きちんとした挨拶。だけどその声が、ほんの少しだけ、柔らかく聞こえた気がした。

「いらっしゃいませ……」

 そう返すと、彼は少しだけ視線を逸らしながら会釈して、暖簾をくぐる。
 そのとき、ちらりとこちらを見て、小さな声で聞いてきた。

「……柿ようかん、ある?」

 不意にそう聞かれて、一瞬だけ驚いた。だけどすぐに、私はいつもの調子で答える──嬉しさで笑いそうになる口元を、ごまかしながら。

「ありますよ。端っこも」

「よかった」

 たったそれだけの、店員と常連客の短いやりとり。なのに、胸の奥が少しあたたかくなる。
 たぶん、彼の声に、温度があったからだろう。
 心の奥に、そっと染み込んでくるような、柔らかいぬくもりが。
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