氷壁エリートの夜の顔

第11話 その誰かは自分じゃない 結城颯真の視点

 後輩のミスで、古美多のシフトに間に合わなくなるとわかったときも、桜さんは静かに、優先すべき仕事を選んだ。誰かを責めることも、言い訳をすることもなく。

 常連客の山本さんの、大切なお祝いの予約がある日だった。彼女がその準備に張り切っていたことは、前の週の古美多での様子からも伝わっていた。

 けれど彼女は、その想いを胸にしまい、無言でパソコンに向かうと、提出用データの再作成に取りかかった。

 ミスをした張本人の後輩は、「さすが咲さん」「今度奢らせてください」と、どこか他人事のような調子で声をかけている。
 それに応じながらも、一切手を止めない彼女の横顔を見つめて──俺の胸に、小さな痛みが走った。

 ラウンジで声をかけると、桜さんはすぐに表情を整え、いつものオフィス用の笑顔を浮かべた。

「提出の時間を先方に伝えてなかったのが、せめてもの救いです」

 平然と答えるその笑顔には、「古美多のことで動揺している自分を、社内では見せない」という、静かな覚悟がにじんでいた。

──彼女は弱音一つ吐かずに、すべての責任を引き受けている。

 だからこそ……気づけば俺の口が動いていた。
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