大学生の須藤藤乃が小学生二人とごはんを食べる話
第9話 理人と近所で食べる担々麺と餃子
その日は朝からどんより曇ってて、今にも雨が降りそうだった。仕方なく学校の売店でビニール傘を買って、教室へ。
午後には雨が降り出して、レインコートを着て汗だくでバラの手入れをするハメに。
「須藤、こないだ持って帰った蕾どした?」
「でかいのはミニブーケ、小さいのはドライフラワーにしてサシェ作った」
「作ったやつは?」
「作った子にあげた」
「……そっか」
「……なんだよ」
聞いてきた男子が視線を斜め後ろに向ける。その先には、先日、葵について言ってきた女子がいる。
「ない。論外。ありえない。あれに渡すくらいなら、お前にやるよ」
「いや、いらんけどさ」
なんやかんや言いつつバラの手入れを終えて、教室に戻る。
「須藤、カラオケ行く?」
帰りがけに、教室を出ようとしたタイミングで、班の男子二人から声をかけられた。
先日の母親の「面談のたびに、一人で過ごしてますって先生に言われてたし」という言葉が頭に浮かぶ。小学生の頃から成長してないって、どうなんだ……?
相手してくれるのが、いつまで経っても小学生二人と瑞希しかいないのも、ほんとどうかと思うし。他人と話したほうがいいなって、思ったばっかだし。
「……行く」
「だよな〜、……えっ!? 須藤が行く!? どした!?」
「反省した」
「お前が反省とか、珍しいな」
「一応ね……」
今日は男子だけで行くって話だから、三人で並んで傘を差して学校を出た。あとで何人か合流するらしい。
……なのに、校門を出たところで呼び止められた。
「ふっくん!」
「帰れ!」
声をかけてきたのは鈴美で、隣の二人が俺と鈴美を交互に見る。
「お願い、話だけでも」
「次はお前に塩かけるぞ」
「須藤、落ち着けって」
鈴美はうつむいたまま動かないし、隣の二人はそわそわと口出ししてくる。……それが狙いかと思うと、余計にムカつく。
「元カノ?」
「違う。従姉妹」
「話くらい聞いてやれば?」
「絶対ムリ。関わりたくねえ」
「お前はなんで、次々に可愛い子を泣かせるんだよ……」
「知らねーよ」
「ふっくん。今だけ、聞いて。聞いてくれたら帰るから」
「カラオケは、また今度誘うからさ」
「ちょっ」
二人はそそくさと去って行った。鈴美が手を伸ばしてきて、思わず払いのけた。傘がぶつかって、水がバシャッと飛ぶ。
気づけば周りの生徒に遠巻きに見られていて、うんざりだ。
「……駅前のファミレス行くぞ」
「ありがとう」
顔を上げた鈴美は、意外にもムスッとしてた。てっきり、ムカつく笑顔だと思ってたのに。
ファミレスでドリンクバーを頼んで、飲み物を取ってきたら、鈴美がいきなり頭を下げた。
「今、スランプで困ってるの。だから、ふっくんの作ったブーケかアレンジ、見せてください。お願いします」
「は? 俺が、お前のスランプに付き合う理由なんかねーよ」
「お願いします。こんなこと言える立場じゃないのはわかってる。ここは私が払うし、お父さんを二度とふっくんたちに近づけない。なんでもする。だから……」
……そう、言われたってな。
伯父ももう関わらないって向こうが言ってたし、ここの支払いだってせいぜい三百円くらいのもんだ。
でもなー……それでまた粘られたり、また学校に来られたりすんのは勘弁だだし。
「何もしなくていいから、もう学校待ち伏せすんな。それと、俺の作ったもんなんて……。あー、ちょっと待て」
スマホを取り出して、葵にメッセージを送った。
すぐに返事が来たから、画面を鈴美に向けた。
そこには、少し前に俺が母親と作った五つのブーケが写っている。
「これの、下の三つが母親が手直ししたやつ。上の二つが俺が一人で作ったやつ」
「……そっか。あおちゃん、どれが好きって言ってた?」
「上の段の右」
「……そうなんだ。わかった」
鈴美はじっと画面を見つめる。その目は、じいさんが植物を見るときと同だ。
こいつは、俺にとってはろくでもねえ、くそほど嫌いな従姉妹だけど、それでも花を扱うことを本気で仕事にしているんだって気づかされる。
あー、やだやだ。鈴美のことなんか、これっぽちも知りたくねえのに。
「ありがとう、ふっくん。ねえ、これって?」
写真アプリの一番下の写真を鈴美が指差した。少し前に葵が作ったブーケだ。今は俺の部屋の花瓶に活けてある。
「葵が作ったやつ」
「……ふっくん、これ見てどう思った?」
どうもこうもない。紫と白のグラデーションがかったトルコキキョウに、ユーカリを添えただけのシンプルなブーケ。俺が大事に部屋に飾って、こうして写真にまで残してある、葵の作品。
「葵らしくて、好きだなって思ったけど」
「そっか、わかった。ありがとう」
「もう帰っていい?」
「うん。またいつか、ふっくんのお花見せてね」
「絶対やだ」
鈴美は困ったように笑った。手元のカップを包む手は、あかぎれと切り傷だらけ。
スマホをカバンに突っ込んだ。
「その……スランプで、自分で”これだ”って思うものが作れなくて……。昔、あおちゃんに、私のよりふっくんが作った方が好きって言われたことがあって。だから、どんなのか見たかったの」
「……そうかよ」
グラスのコーラを一気に流し込んで立ち上がる。これ以上、こいつの感傷に付き合うつもりはない。
「あと、その……謝りたくて。お父さんが、ふっくんに嫌がらせしてた理由も、ちゃんと……」
「謝らなくていいって、言ったよな?」
カバンから財布を出して、五百円玉をテーブルに置いた。メガネを直してカバンを背負う。
「お前の事情なんか知らねえし、理由も知りたくない。お前のオヤジは関わらないって言って塩までまいた。うちの母親も塩を投げ返した。それで終わりだ」
鈴美の口が開きかけて、何も言わずにまた閉じた。
そのまま背中を向けて、ファミレスを出た。
駅は学校を挟んでうちと反対方向なので、また学校の前を通って家に向かう。
まだ雨はしとしとと降り続いていて、靴が重い。
スマホが震えた。カバンから出すと、理人の名前が画面に光ってた。
「はいよ」
『藤乃さん、今って部屋にいます?』
理人は相変わらずハキハキと喋る。鈴美のじめじめした喋りにうんざりしていたから、ちょっとホッとした。
「まだ学校の近く。もうちょいで帰る」
『わかりました。今日は塾の帰りに寄っていいですか? いつもと時間が違って、父の迎えが間に合わないんです』
「いいよ。じゃあ終わったら連絡くれ。迎えに行くから、一緒に飯食って送る」
『それは申し訳ないです』
「飯に付き合ってくれたら、いいよ。ラーメン食いたいな」
そう言うと、理人は少し黙ってから、ふっと笑った。
『分かりました。母に伝えておきます』
それで通話が切れる。
つーか、俺は小学生に飯たかって、何やってんだ。……まあ、いっか。今はちょっと、一人で飯食いたくない。
スマホをカバンに放り込んで、家へと向かう。
ドアを開けるとユーカリのスッキリした匂いが広がっていた。最近は毎日こうだ。家に帰ってくると、ほっとする。
花瓶の水を取り替えて、課題になってた本を読む。半分くらいで飽きたから、読みかけの小説を読んだり、マンガを読んだり。
スマホで流行りの服を見たりする。俺は地味らしいので、意識的に派手めの服を探すようにしてる。何にも考えてないと、ついモノクロばっかり選んじゃうんだよな。
そうこうしているうちに、塾が終わる時間が近くなる。家を出ると、雨はすっかり止んでいて、しっとりした夏の夜の空気がひんやりと気持ちよかった。
塾の前まで行くと、子どもたちがわらわら集まっていた。
「藤乃くん!」
「おお、葵も帰り?」
「ううん、私はまだだけど、理人が藤乃くんに迎えに来てもらうっていうから、顔見に来た」
「なんだそれ」
カバンを探ると、飴が入っていたので一つ渡す。葵が「やったあ」と口に入れたところで理人も来た。
「すみません、お待たせしてしまって」
「いいよ。終わった?」
「はい! 終わりました!」
「いいなあ。私も今度一緒に帰ろうね」
「はいはい。でもお前、土日にはちゃんと送ってやってるだろ」
「一緒にごはん食べたいの!」
「はいはい、わかったよ」
不満そうな葵の頭を撫でてから、理人と歩き出す。理人は友達らしき子どもらに手を振っている。
「菅野さん、あれで藤乃さんのことが好きじゃないの、よくわからないですね……」
「はあ? えっ、葵って、俺のこと好きじゃなかったの……?」
「そうじゃないです」
理人はカバンを背負いなおして苦笑いした。
「今のは、ちょっと牽制も入ってたと思いますし」
「牽制?」
聞き返すと、理人はくるっと後ろを向いて塾の入っているビルを見上げた。視線を追っても、窓のところには誰もいない。
「前に、菅野さんが塾で失礼なこと言われたって話、覚えてます?」
顔を前に戻して、歩きながら理人が言う。頭一個分背の低い理人が、どんな顔をしているかはよくわからない。
「菅野さんは藤乃さんのことを悪く言われて、すごく怒ったんです。……でも実際にあの子たちが藤乃さんを見たら、きっと藤乃さんのことをチヤホヤしますし、菅野さんの悪口を吹き込もうとすると思います」
「えっ……なんで、そんなこと……?」
「んー……僕らから見て、すごくかっこいいですからね。大学生で背も高いし」
「まあ、小学生から見れば、大学生が大人っぽく見えるのはわかるけどさ。だからって俺に葵の悪口言うのは、やっぱりわかんねえな」
「取り入りたいんですよ」
理人が、少し低い冷たい声で言い捨てた。さっき、葵が俺のことで怒ったって言ってたけど、たぶん理人も同じだったんだろう。馬鹿だな。こんな冴えない大学生のことでカッカするなんて。
「ごめん、ますますわかんねえわ」
そう言ったところで、目当てのラーメン屋に着いた。理人を呼び止めて、一緒に入る。入り口に券売機があって、カウンターとテーブルがいくつかある、こじんまりとした店だ。
「どれ食う?」
「こういうお店初めてです。おすすめってありますか?」
「俺も初めてなんだよね。えっと……あ、いたいた」
タイミングよく、すいていた店内をキョロキョロすると、実習が同じ班の男子がテーブルを拭いているところだった。目が合ったから手を振ったら、向こうも目を丸くして近寄ってくる。
「よお。須藤がマジで来るとは思わなかったわ」
少し前に、ここでバイトをしていると聞かされて、たしか俺は生返事だけして終わった。でも今日カラオケ行けなかったし、鈴美のことでうんざりしたから、ちょっとでも知ってる顔を見たくなった。普段は雑に扱ってるくせに、こんなの、ちょっと甘えてるかもしれないけど。
「人付き合いの悪さを反省したんだ。なんかおすすめある?」
「本当に反省したんだ? これ、担々麺うめえよ。あと餃子。原価率が低くておすすめ」
「けっこう辛い? 小学生でも大丈夫?」
「小学生?」
そこで俺の陰にいた理人に気づく。
「この子? 親戚の美人な小学生」
「違う。こいつは俺が住んでるアパートの大家の孫。いつも面倒見られてるから、たまには俺が飯に連れてきた」
そう言うと男子は首をかしげて理人の顔を覗き込んだ。
「ふうん、本当? 君、誘拐とかされてない?」
失礼すぎて笑ってしまった。しねえよ、そんなこと。
理人は目を丸く見開いてから、首を横に振る。
「されてません。藤乃さん、そんなリスク高いことしません」
「あはは、須藤のこと、よく分かってんじゃん。担々麺は辛さ選べるよ。最初は一辛にして、いけそうなら二にして。テーブルに唐辛子とラー油も置いてある」
「サンキュ。じゃあ俺は担々麺の一辛と餃子で。理人は?」
「僕も同じで。あ、炒飯も食べます。あとお金も」
「別にいいけど」
「母からもらってるので、出します」
「そう?」
出てきた食券を渡してから、隅のテーブル席に座る。理人は物珍しそうにキョロキョロしている。ピッチャーの水をコップに入れて渡してやると、理人は「セルフサービスなんですね」と頷く。
「今の人は、藤乃さんの友達ですか?」
「たぶんそう。大学の実習で同じ班なんだよね」
「実習って、どんなことやってるんですか?」
「今はバラの手入れ。雑草抜いたり、畑の手入れしたり、そのうち剪定もするっぽいけど。草木に関わることなら、なんでもって感じ」
理人はちまちまと水を飲みながら、俺にぽつぽつと質問を続けてくる。
「あ、そうだ。さっきの話だけどさ」
水のお代わりを入れながら、言葉を選んだ。
「塾の子が取り入るだなんだって言ってたけど、少なくとも葵と理人のことを他の誰かから聞かされても、俺は信じないよ」
「……藤乃さんは、そうですよね」
「うん。俺は俺が見てきた二人のことしか知らないからね。他の誰かに言われても、知らんし」
「僕も、そう思います」
「はい、お待ちどう」
担々麺が運ばれてきた。ホカホカと湯気がのぼって、向かいの理人の顔がよく見えなくなる。でもきっと、嬉しそうにしているんだろう。
「お、いい匂い」
「美味しそうです!」
「すんげーうまいよ」
餃子の皿を置いて、そいつ……友達はカウンターに戻った。
「いただきます」
理人と手を合わせて担々麺に箸を伸ばす。
「うまっ!」
「わ、本当に美味しいです!」
熱々の担々麺は、肉が香ばしくてめちゃくちゃ美味い。ネギはシャキシャキ、麺はツルツルで、無限に食べられそうだ。
餃子もカリカリでうまい。噛むと中から肉汁がジュワッと溢れて、にんにくと生姜の匂いがたまらない。
理人も黙々と箸を進めている。
自分では気づかなかったけど、けっこう腹が減ってたらしい。あっという間に二人とも食べ終えてしまった。
「やー……うまかったな」
「はい。すごかったです。気づいたらなくなってました」
「次は二辛にしよっかな」
「僕も、そうしてみます」
二人で手を合わせて店を出る。出るときに「美味かったからまたくるわ」と言うと、友達は「おう、待ってるよ」とクーポンをくれた。
「カラオケも、次は行こうな」
「うん、ありがと」
理人と他愛ない話をしながら、のんびり歩いて帰る。
人間、腹がいっぱいになると怒れなくなるらしい。塾の子に怒っていた理人は機嫌良くさっきのラーメンのことを話しているし、俺も今なら鈴美のことを許せる気がする……いや、しねえわ。許せないけど、まあ、顔を思い浮かべてもイラッとしないくらいには、気が済んだ。
「次は菅野さんも一緒に食べに行きましょう」
「おう。俺はいつでもいいから、二人が都合がいい日決めてさ、教えてくれ」
「はい!」
理人を送り届けたら、理人の母ちゃんがお礼だと言って近所のパン屋のパン詰め合わせをくれた。ありがたく受け取って、家に向かう。
夜の住宅街はすごく静かで、俺の足音以外、何も聞こえない。
今日はちょっと変な一日だったけど、担々麺が美味かったから、まあ、いいか。明日の朝のパンもあるし。
午後には雨が降り出して、レインコートを着て汗だくでバラの手入れをするハメに。
「須藤、こないだ持って帰った蕾どした?」
「でかいのはミニブーケ、小さいのはドライフラワーにしてサシェ作った」
「作ったやつは?」
「作った子にあげた」
「……そっか」
「……なんだよ」
聞いてきた男子が視線を斜め後ろに向ける。その先には、先日、葵について言ってきた女子がいる。
「ない。論外。ありえない。あれに渡すくらいなら、お前にやるよ」
「いや、いらんけどさ」
なんやかんや言いつつバラの手入れを終えて、教室に戻る。
「須藤、カラオケ行く?」
帰りがけに、教室を出ようとしたタイミングで、班の男子二人から声をかけられた。
先日の母親の「面談のたびに、一人で過ごしてますって先生に言われてたし」という言葉が頭に浮かぶ。小学生の頃から成長してないって、どうなんだ……?
相手してくれるのが、いつまで経っても小学生二人と瑞希しかいないのも、ほんとどうかと思うし。他人と話したほうがいいなって、思ったばっかだし。
「……行く」
「だよな〜、……えっ!? 須藤が行く!? どした!?」
「反省した」
「お前が反省とか、珍しいな」
「一応ね……」
今日は男子だけで行くって話だから、三人で並んで傘を差して学校を出た。あとで何人か合流するらしい。
……なのに、校門を出たところで呼び止められた。
「ふっくん!」
「帰れ!」
声をかけてきたのは鈴美で、隣の二人が俺と鈴美を交互に見る。
「お願い、話だけでも」
「次はお前に塩かけるぞ」
「須藤、落ち着けって」
鈴美はうつむいたまま動かないし、隣の二人はそわそわと口出ししてくる。……それが狙いかと思うと、余計にムカつく。
「元カノ?」
「違う。従姉妹」
「話くらい聞いてやれば?」
「絶対ムリ。関わりたくねえ」
「お前はなんで、次々に可愛い子を泣かせるんだよ……」
「知らねーよ」
「ふっくん。今だけ、聞いて。聞いてくれたら帰るから」
「カラオケは、また今度誘うからさ」
「ちょっ」
二人はそそくさと去って行った。鈴美が手を伸ばしてきて、思わず払いのけた。傘がぶつかって、水がバシャッと飛ぶ。
気づけば周りの生徒に遠巻きに見られていて、うんざりだ。
「……駅前のファミレス行くぞ」
「ありがとう」
顔を上げた鈴美は、意外にもムスッとしてた。てっきり、ムカつく笑顔だと思ってたのに。
ファミレスでドリンクバーを頼んで、飲み物を取ってきたら、鈴美がいきなり頭を下げた。
「今、スランプで困ってるの。だから、ふっくんの作ったブーケかアレンジ、見せてください。お願いします」
「は? 俺が、お前のスランプに付き合う理由なんかねーよ」
「お願いします。こんなこと言える立場じゃないのはわかってる。ここは私が払うし、お父さんを二度とふっくんたちに近づけない。なんでもする。だから……」
……そう、言われたってな。
伯父ももう関わらないって向こうが言ってたし、ここの支払いだってせいぜい三百円くらいのもんだ。
でもなー……それでまた粘られたり、また学校に来られたりすんのは勘弁だだし。
「何もしなくていいから、もう学校待ち伏せすんな。それと、俺の作ったもんなんて……。あー、ちょっと待て」
スマホを取り出して、葵にメッセージを送った。
すぐに返事が来たから、画面を鈴美に向けた。
そこには、少し前に俺が母親と作った五つのブーケが写っている。
「これの、下の三つが母親が手直ししたやつ。上の二つが俺が一人で作ったやつ」
「……そっか。あおちゃん、どれが好きって言ってた?」
「上の段の右」
「……そうなんだ。わかった」
鈴美はじっと画面を見つめる。その目は、じいさんが植物を見るときと同だ。
こいつは、俺にとってはろくでもねえ、くそほど嫌いな従姉妹だけど、それでも花を扱うことを本気で仕事にしているんだって気づかされる。
あー、やだやだ。鈴美のことなんか、これっぽちも知りたくねえのに。
「ありがとう、ふっくん。ねえ、これって?」
写真アプリの一番下の写真を鈴美が指差した。少し前に葵が作ったブーケだ。今は俺の部屋の花瓶に活けてある。
「葵が作ったやつ」
「……ふっくん、これ見てどう思った?」
どうもこうもない。紫と白のグラデーションがかったトルコキキョウに、ユーカリを添えただけのシンプルなブーケ。俺が大事に部屋に飾って、こうして写真にまで残してある、葵の作品。
「葵らしくて、好きだなって思ったけど」
「そっか、わかった。ありがとう」
「もう帰っていい?」
「うん。またいつか、ふっくんのお花見せてね」
「絶対やだ」
鈴美は困ったように笑った。手元のカップを包む手は、あかぎれと切り傷だらけ。
スマホをカバンに突っ込んだ。
「その……スランプで、自分で”これだ”って思うものが作れなくて……。昔、あおちゃんに、私のよりふっくんが作った方が好きって言われたことがあって。だから、どんなのか見たかったの」
「……そうかよ」
グラスのコーラを一気に流し込んで立ち上がる。これ以上、こいつの感傷に付き合うつもりはない。
「あと、その……謝りたくて。お父さんが、ふっくんに嫌がらせしてた理由も、ちゃんと……」
「謝らなくていいって、言ったよな?」
カバンから財布を出して、五百円玉をテーブルに置いた。メガネを直してカバンを背負う。
「お前の事情なんか知らねえし、理由も知りたくない。お前のオヤジは関わらないって言って塩までまいた。うちの母親も塩を投げ返した。それで終わりだ」
鈴美の口が開きかけて、何も言わずにまた閉じた。
そのまま背中を向けて、ファミレスを出た。
駅は学校を挟んでうちと反対方向なので、また学校の前を通って家に向かう。
まだ雨はしとしとと降り続いていて、靴が重い。
スマホが震えた。カバンから出すと、理人の名前が画面に光ってた。
「はいよ」
『藤乃さん、今って部屋にいます?』
理人は相変わらずハキハキと喋る。鈴美のじめじめした喋りにうんざりしていたから、ちょっとホッとした。
「まだ学校の近く。もうちょいで帰る」
『わかりました。今日は塾の帰りに寄っていいですか? いつもと時間が違って、父の迎えが間に合わないんです』
「いいよ。じゃあ終わったら連絡くれ。迎えに行くから、一緒に飯食って送る」
『それは申し訳ないです』
「飯に付き合ってくれたら、いいよ。ラーメン食いたいな」
そう言うと、理人は少し黙ってから、ふっと笑った。
『分かりました。母に伝えておきます』
それで通話が切れる。
つーか、俺は小学生に飯たかって、何やってんだ。……まあ、いっか。今はちょっと、一人で飯食いたくない。
スマホをカバンに放り込んで、家へと向かう。
ドアを開けるとユーカリのスッキリした匂いが広がっていた。最近は毎日こうだ。家に帰ってくると、ほっとする。
花瓶の水を取り替えて、課題になってた本を読む。半分くらいで飽きたから、読みかけの小説を読んだり、マンガを読んだり。
スマホで流行りの服を見たりする。俺は地味らしいので、意識的に派手めの服を探すようにしてる。何にも考えてないと、ついモノクロばっかり選んじゃうんだよな。
そうこうしているうちに、塾が終わる時間が近くなる。家を出ると、雨はすっかり止んでいて、しっとりした夏の夜の空気がひんやりと気持ちよかった。
塾の前まで行くと、子どもたちがわらわら集まっていた。
「藤乃くん!」
「おお、葵も帰り?」
「ううん、私はまだだけど、理人が藤乃くんに迎えに来てもらうっていうから、顔見に来た」
「なんだそれ」
カバンを探ると、飴が入っていたので一つ渡す。葵が「やったあ」と口に入れたところで理人も来た。
「すみません、お待たせしてしまって」
「いいよ。終わった?」
「はい! 終わりました!」
「いいなあ。私も今度一緒に帰ろうね」
「はいはい。でもお前、土日にはちゃんと送ってやってるだろ」
「一緒にごはん食べたいの!」
「はいはい、わかったよ」
不満そうな葵の頭を撫でてから、理人と歩き出す。理人は友達らしき子どもらに手を振っている。
「菅野さん、あれで藤乃さんのことが好きじゃないの、よくわからないですね……」
「はあ? えっ、葵って、俺のこと好きじゃなかったの……?」
「そうじゃないです」
理人はカバンを背負いなおして苦笑いした。
「今のは、ちょっと牽制も入ってたと思いますし」
「牽制?」
聞き返すと、理人はくるっと後ろを向いて塾の入っているビルを見上げた。視線を追っても、窓のところには誰もいない。
「前に、菅野さんが塾で失礼なこと言われたって話、覚えてます?」
顔を前に戻して、歩きながら理人が言う。頭一個分背の低い理人が、どんな顔をしているかはよくわからない。
「菅野さんは藤乃さんのことを悪く言われて、すごく怒ったんです。……でも実際にあの子たちが藤乃さんを見たら、きっと藤乃さんのことをチヤホヤしますし、菅野さんの悪口を吹き込もうとすると思います」
「えっ……なんで、そんなこと……?」
「んー……僕らから見て、すごくかっこいいですからね。大学生で背も高いし」
「まあ、小学生から見れば、大学生が大人っぽく見えるのはわかるけどさ。だからって俺に葵の悪口言うのは、やっぱりわかんねえな」
「取り入りたいんですよ」
理人が、少し低い冷たい声で言い捨てた。さっき、葵が俺のことで怒ったって言ってたけど、たぶん理人も同じだったんだろう。馬鹿だな。こんな冴えない大学生のことでカッカするなんて。
「ごめん、ますますわかんねえわ」
そう言ったところで、目当てのラーメン屋に着いた。理人を呼び止めて、一緒に入る。入り口に券売機があって、カウンターとテーブルがいくつかある、こじんまりとした店だ。
「どれ食う?」
「こういうお店初めてです。おすすめってありますか?」
「俺も初めてなんだよね。えっと……あ、いたいた」
タイミングよく、すいていた店内をキョロキョロすると、実習が同じ班の男子がテーブルを拭いているところだった。目が合ったから手を振ったら、向こうも目を丸くして近寄ってくる。
「よお。須藤がマジで来るとは思わなかったわ」
少し前に、ここでバイトをしていると聞かされて、たしか俺は生返事だけして終わった。でも今日カラオケ行けなかったし、鈴美のことでうんざりしたから、ちょっとでも知ってる顔を見たくなった。普段は雑に扱ってるくせに、こんなの、ちょっと甘えてるかもしれないけど。
「人付き合いの悪さを反省したんだ。なんかおすすめある?」
「本当に反省したんだ? これ、担々麺うめえよ。あと餃子。原価率が低くておすすめ」
「けっこう辛い? 小学生でも大丈夫?」
「小学生?」
そこで俺の陰にいた理人に気づく。
「この子? 親戚の美人な小学生」
「違う。こいつは俺が住んでるアパートの大家の孫。いつも面倒見られてるから、たまには俺が飯に連れてきた」
そう言うと男子は首をかしげて理人の顔を覗き込んだ。
「ふうん、本当? 君、誘拐とかされてない?」
失礼すぎて笑ってしまった。しねえよ、そんなこと。
理人は目を丸く見開いてから、首を横に振る。
「されてません。藤乃さん、そんなリスク高いことしません」
「あはは、須藤のこと、よく分かってんじゃん。担々麺は辛さ選べるよ。最初は一辛にして、いけそうなら二にして。テーブルに唐辛子とラー油も置いてある」
「サンキュ。じゃあ俺は担々麺の一辛と餃子で。理人は?」
「僕も同じで。あ、炒飯も食べます。あとお金も」
「別にいいけど」
「母からもらってるので、出します」
「そう?」
出てきた食券を渡してから、隅のテーブル席に座る。理人は物珍しそうにキョロキョロしている。ピッチャーの水をコップに入れて渡してやると、理人は「セルフサービスなんですね」と頷く。
「今の人は、藤乃さんの友達ですか?」
「たぶんそう。大学の実習で同じ班なんだよね」
「実習って、どんなことやってるんですか?」
「今はバラの手入れ。雑草抜いたり、畑の手入れしたり、そのうち剪定もするっぽいけど。草木に関わることなら、なんでもって感じ」
理人はちまちまと水を飲みながら、俺にぽつぽつと質問を続けてくる。
「あ、そうだ。さっきの話だけどさ」
水のお代わりを入れながら、言葉を選んだ。
「塾の子が取り入るだなんだって言ってたけど、少なくとも葵と理人のことを他の誰かから聞かされても、俺は信じないよ」
「……藤乃さんは、そうですよね」
「うん。俺は俺が見てきた二人のことしか知らないからね。他の誰かに言われても、知らんし」
「僕も、そう思います」
「はい、お待ちどう」
担々麺が運ばれてきた。ホカホカと湯気がのぼって、向かいの理人の顔がよく見えなくなる。でもきっと、嬉しそうにしているんだろう。
「お、いい匂い」
「美味しそうです!」
「すんげーうまいよ」
餃子の皿を置いて、そいつ……友達はカウンターに戻った。
「いただきます」
理人と手を合わせて担々麺に箸を伸ばす。
「うまっ!」
「わ、本当に美味しいです!」
熱々の担々麺は、肉が香ばしくてめちゃくちゃ美味い。ネギはシャキシャキ、麺はツルツルで、無限に食べられそうだ。
餃子もカリカリでうまい。噛むと中から肉汁がジュワッと溢れて、にんにくと生姜の匂いがたまらない。
理人も黙々と箸を進めている。
自分では気づかなかったけど、けっこう腹が減ってたらしい。あっという間に二人とも食べ終えてしまった。
「やー……うまかったな」
「はい。すごかったです。気づいたらなくなってました」
「次は二辛にしよっかな」
「僕も、そうしてみます」
二人で手を合わせて店を出る。出るときに「美味かったからまたくるわ」と言うと、友達は「おう、待ってるよ」とクーポンをくれた。
「カラオケも、次は行こうな」
「うん、ありがと」
理人と他愛ない話をしながら、のんびり歩いて帰る。
人間、腹がいっぱいになると怒れなくなるらしい。塾の子に怒っていた理人は機嫌良くさっきのラーメンのことを話しているし、俺も今なら鈴美のことを許せる気がする……いや、しねえわ。許せないけど、まあ、顔を思い浮かべてもイラッとしないくらいには、気が済んだ。
「次は菅野さんも一緒に食べに行きましょう」
「おう。俺はいつでもいいから、二人が都合がいい日決めてさ、教えてくれ」
「はい!」
理人を送り届けたら、理人の母ちゃんがお礼だと言って近所のパン屋のパン詰め合わせをくれた。ありがたく受け取って、家に向かう。
夜の住宅街はすごく静かで、俺の足音以外、何も聞こえない。
今日はちょっと変な一日だったけど、担々麺が美味かったから、まあ、いいか。明日の朝のパンもあるし。