伯爵家を支えていたのは私なのに、浮気した元旦那様に未練があるとでも? 幼馴染の騎士と再婚しますのでお帰りください

第01話


 朝靄が溶け、薄曇りの光が広い窓から射し込む。領地の冬も終わりを告げ、街路樹には芽吹きの兆しが見え始めていた。
 だが、伯爵家の執務室は冷え切った空気に支配されていた。
 手入れの行き届いた机には、未決済の書類が山のように積まれており、どの帳簿も赤字を示す警告の印が並んでいる。
 その中で、一人の女性が淡々とペンを走らせていた。指先は赤く、長時間の作業に疲れがにじむが、背筋は崩さず、視線は鋭い。

 伯爵家当主代理、エリナ・フォン・グレンデルーー伯爵夫人である。

「税収報告……今年は例年の八割か……畑の収穫量、漁獲高、すべて不作。原因は──やはり領内の農地の荒廃が影響しているのね」

 静かに独り言を漏らし、エリナは筆を止め、視察で得た自らの記録と照合した。
 正確な数字の裏には、彼女自身が足を運び、農民の声を聞き、寒風吹きすさぶ田畑に立ち、膝を泥で濡らした労苦が刻まれていた。
 誰がそれを理解しているのだろう──そう思うと、胸が苦しくなる。
 ふと視線を上げたその時、重々しい足音が床を震わせ、無遠慮に扉が開け放たれた。
 ガツン、と鈍い音を立てて扉が壁にぶつかり、部屋の中の空気が揺れる。

「おい、エリナ。俺のワイングラスはどこだ?」

 低くがらついた声が響く。入ってきたのは、濃紺の軍服をだらしなく着崩した伯爵、カーディス・フォン・グレンデル。
 襟元は乱れ、髪は乱雑に濡れ、足元には泥と酒の匂いが混じったしみが広がっている。

「……昼間から酔っているのですか? 政務会議はどうされたのです?」
「は? あんな退屈な会議、行く必要なんてないだろ。お前がいれば十分なんだからな」

 カーディスは唇の片端を吊り上げ、机の上に無造作に手を伸ばし、エリナの整えた書類を弾く。
 紙束が宙に舞い、床へと散らばった。
 数字が書かれた帳簿のページが無惨に広がり、淡いインクの匂いが鼻をつく。

「……!」

 息を呑む音が、部屋の静寂に溶ける。
 だが、エリナは目を閉じ、震える手を押さえ、淡々と椅子に腰を戻す。何度も繰り返されてきた光景だった。

 ──この家を支えているのは誰なのか。

 ふと、漂う香りに眉が寄る。
 甘く、粘つくような香水の匂い。
 そして、彼の袖口に滲んだ赤い口紅の跡。エリナは目を伏せ、静かに息を吸った。

「そう睨むなよ。女の一人や二人で騒ぐな……貴族の男にとって、愛人がいるのは当たり前だろ? つまらない女だな、お前は」

 カーディスは大きなあくびをして、エリナを見下ろしたまま肩を揺らした。

「……私がつまらないのではありません。貴方が貴族の務めを果たさず、妻を裏切るからです」
「裏切り? 俺が? 笑わせるな。伯爵の座にあるのは俺だ。妻を持ち、子を成し、愛人を囲うのは当然の権利だ」
「……その結果、屋敷の財務は火の車。税の滞納者は増え、領民は疲弊しています……貴方が投げ出した政務を、誰が補ってきたのか」
「知らん。知る必要もない」

 冷たく、突き放すような声。
 カーディスは肩をすくめ、くるりと背を向けた。その背に、エリナの胸が詰まる。

「……私は、もう耐えられません」

 震える声で、エリナは絞り出した。
 ペンを持つ指が、力なく机の上に落ちる。
 カーディスが振り向く。薄暗い部屋で、彼の瞳は挑発するような光を宿していた。

「……ほう。じゃあ、離婚でもするか?──だが、俺が許すわけないだろうけどな」

 決定的な言葉。エリナの中で何かが静かに切れた音がした。

 その夜、エリナは机に一通の手紙を置いた。
 インクの乾きかけた文字が微かに滲む。

《もう、耐えられません……離婚届にサインしましたので記入をお願いします。》

 外は静まり返り、月光が机の上を銀色に照らしていた。
 エリナは振り返ることなく、伯爵家の屋敷を後にする。
 その背に、長い影が伸び、決意の色を帯びていた。

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