伯爵家を支えていたのは私なのに、浮気した元旦那様に未練があるとでも? 幼馴染の騎士と再婚しますのでお帰りください
第02話
夜明け前の薄明かりが地平線を染め、遠く小鳥のさえずりが響き始める――荷馬車に揺られながら、エリナはぼんやりと窓の外を見つめていた。
視界に映るのは、どこまでも続く麦畑と、緑に覆われた丘陵地帯。
春の風が吹き抜け、まだ肌寒い朝の空気が頬を撫でる。
その風景は、かつて一度だけ訪れた記憶のある場所だった。
薄紅色の花が小道に咲き、幼い頃に駆け回った草原の匂いが、微かに胸に蘇る。
(……懐かしいなぁ)
──あの時はまだ少女で、無邪気に笑っていたのに。
重い心を胸に、エリナはそっと瞼を閉じた。
身体の奥に残る疲労は、長い間耐え続けてきた重圧の証。
その肩を揺らす馬車の振動が、妙に心地よくさえ感じる――まるで、何もかもを振り落としてしまえるかのように。
指先に残るインクの匂い、数え切れない夜を照らした蝋燭の光、夫の冷たい視線──それら全てを遠ざけ、ただ揺られている時間が、心にわずかな安堵をもたらした。
「奥様、もうすぐ領主様の館が見えてまいります」
「ありがとうございます」
御者の声に、エリナはゆっくりと目を開き、お礼を言う。
視線の先、遠くに石造りの立派な館が見える。
その周囲には小さな村落が広がり、煙突からは朝の煙が立ち上っていた。
畑には鍬を持つ農夫の姿があり、子どもたちが笑いながら追いかけっこをしている。
素朴であたたかな営みの気配が、胸の奥にじんわりと広がる。
こんな穏やかな景色が、まだ自分を迎えてくれるのだろうか。
そして──その館の門の前に、一人の男が立っている。
長身で、広い背中を持つ男。無骨な鎧を纏い、腰には剣を下げ、片手を腰に当てて仁王立ちしている。
その鋭い目が馬車の方へと向けられた瞬間、エリナの胸が小さく跳ねた。
心臓が早鐘を打ち、乾いた喉が音を立てる。
「――アレク?」
思わず名を呼んでしまった声が震える。
アレク──かつての幼馴染であり、今は領主の護衛隊長を務めている男性。
その面差しは少年の頃の面影を残しながらも、逞しさを増し、確かな強さを纏っていた。
少年時代に見た彼の笑顔や、真っ直ぐで不器用な優しさが、胸の奥で痛みを伴って蘇る。
あの頃は何も知らず、ただ一緒に笑い合っていたのに。
「ようやく帰ってきたか、エリナ」
低く、落ち着いた声が響く。
その声に、不思議な安心感が胸を満たす。言葉に出さずとも、彼の眼差しはまるで「よく頑張ったな」と告げているようだった。
長い時を経て、ふたりの時間が再び交差する瞬間だった。
「……ご無沙汰しています、アレク」
微かに笑みを浮かべ、そう返したエリナの目尻には、滲むような光が宿っていた。
瞳の奥で細やかに揺れる光は、決して強いものではなく、むしろ脆く、壊れてしまいそうな危うさを孕んでいる。
それでも、ようやく辿り着いた場所に、再び自分を迎えてくれた人がいることへの安堵が、微かに唇の端を持ち上げさせたのだった。
ふと吹き抜けた春の風が、彼女の頬を優しく撫で、淡い金色の髪をそっと揺らす。
その髪が光を受けて淡くきらめき、まるで過去の記憶が蘇るかのように、彼女の姿を柔らかく包み込む。
エリナは思わずその場で立ち上がり、ぎこちなく、けれども丁寧に頭を下げた。
その動作は少しぎこちなく、まるで自分の居場所が本当にここにあるのかと確かめるような、戸惑いと緊張を含んでいた。
アレクの視線がわずかに柔らかくなる。
その瞳は厳しさを湛えながらも、彼女の小さな震えや、長旅の疲労を見逃さず、何かを言いたげに揺れていた。
口元がかすかに綻び、けれどすぐに引き締められ、言葉を紡ぐことはしなかった。
ただ、確かに彼はそこに立ち、エリナのために時間を止めているかのようだった。
彼の歩みがゆっくりと近づく。重い鎧の音が鈍く響き、土を踏みしめる音が確かな存在感を伝えてくる。
風に揺れる鎧の装飾、擦れ合う革の匂い、すべてが過去の記憶を呼び覚ます。アレクは無言のまま、確かな意志を持って歩を進め、エリナの目の前で足を止めた。
「――もう、大丈夫だ。お前は、もう一人じゃない」
低く、穏やかなその声が、エリナの心を深く震わせた。
短い言葉の中に、どれほどの想いが込められているのか。
苦しんでいた日々、孤独な夜、冷たい言葉に耐え続けた時間。
それらすべてを知った上で、なお彼が差し伸べてくれる手。
エリナの喉元が熱くなり、涙が今にも零れそうになる。
胸の奥からあふれる想いが溢れ出しそうになり、必死に唇を引き結んで堪えた。
──ありがとう、アレク。
その言葉を飲み込み、彼女はそっと目を閉じた。瞼の裏で、彼の存在が温かな光となって広がっていくようだった。
「…………お前の元旦那、どのようにして殺すか考えるか」
ボソっと呟いた言葉は聞かないでおこうと、エリナは心に決めたのだった。